福島市の中心部にある信夫山の情報サイト

その41 信夫山の転び石

信夫山トンネルの北側に「転び石」という字名があります。
その由来は、なんと信夫山の頂上から巨大な石が転げ落ちてきて、子守の女の子を押し潰してしまったのだとか。そして、その巨石は昭和の時代まで(?)、田んぼの真ん中にどーんと鎮座していたのだそうです。
現在は、信夫山北の道路向かいに、記念碑が立っています。
さて、この巨大な転び石が、実は、信夫山の南にも落ちてきていたのです。しかも、それは現在もそこにでーんと鎮座しています。

「そこはどこか?」というと、なんと福島県立図書館の裏庭です。県立美術館・図書館の正面中庭のプールの奥に、裏庭に抜ける地下道があり、そこをくぐり抜けると簡単裏庭に出られます。
「転び石」は図書館駐車場の緑地にありました。早速見に行くと、高さ2.6メートルほどもある大岩で、その昔、南の烏ケ崎の岩場から、ものすごい音と地響きを伴って転げ落ちてきたものだそう。地元の人々は、怖れと畏敬の念を込めて「お岩さん」と呼び、しめ縄を張って祀(まつ)ってきました。
現在は、「大山づみ※1神(おおやまづみのかみ」と、「大田明神」と刻まれた石碑が立っています。大山づみ神は山の神様で、春になると山を降りて田の神さまに、秋になると山に帰ります。信夫山の話は尽きません。
注:※1 「づみ」は、ころもへんに氏

その42 信夫山護国神社とは?

信夫山「護国神社」は、初詣等で訪れた方も多いことでしょう。国のために命を捧げた英霊を合祀するために設けられた神社で、明治12年に信夫山「招魂社」として造営されました。御祭神は天照皇大御神(アマテラススメオオミカミ)です。
昭和12年に現在の社殿が建てられ、昭和14年に福島県「護国神社」と改称されました。入母屋造りで、左右に鳳凰型の翼廊がある堂々とした社殿です。元旦祭や春季・秋季例大祭をはじめ、年間を通じて、イベントやお祭りも行われています。

また、護国神社入り口には、信夫山「天満宮」があります。菅原道真公が御祭神ですが「願うて叶(かな)わざるはなし」として、太宰府天満宮より御分霊を拝載し、昭和63年に創建されました。
「なで牛」と呼ばれる牛の像が祀(まつ)られていて、なでた場所にご利益があると言われています。合格祈願には頭を、病気の方は具合が悪い所をなでてみてください。
奥右隣に、黒沼神社があります。こちらは1200年以上の歴史があり、石姫皇后と皇太子伝説も掲げられています。
延喜年間に国が全国の神社を定めたとき、信夫郡で最初に「延喜式内神社」として列せられた古社で、板倉藩主代々の絵馬が奉納されています。
信夫山は神社にもいろいろな物語があったのですね。

その43 伊達政宗と松川合戦

今回は、伊達政宗が福島攻めをした松川合戦のお話をします。
慶長5年(1600年)、伊達政宗は伊達・信夫領郡を奪回すべく、信夫山(信夫山公園)に本陣を構え、上杉方の福島城・城代本庄繁長と対陣しました。この年は関が原の合戦が有名ですが、その約2カ月後に上杉と伊達政宗の松川合戦が行われたのでした。
もともと、古くから福島一帯は伊達家の所領でしたが、豊臣秀吉の日本統一により召し上げられていました。
その後、徳川家康と豊臣家の争いとなり、豊臣の重臣であった上杉景勝の監視役を引き受けた伊達政宗に対し、家康は旧領回復を約束しました。

「東北の関が原の戦い」とまで言われた政宗の福島攻めには、こんな背景があったのです。
当時、松川は信夫山の南側を流れていて、現在の一盃森と橘高校、桜の聖母辺りの前を通り、福島競馬場の北端から阿武隈川に注いでいました(現在のように信夫山の北の流れになったのは、寛永14年(1637年)の大氾濫によるものです)。両軍はその松川を挟んで激しく戦い、ついに福島勢が伊達政宗を打ち負かします。政宗は味方した信夫山の別当寂光寺と茂庭に逃れ、仙台に帰ったといわれています。
その福島城は、現在福島県庁裏にわずかに土塁が残っているだけです。

その44 羽黒神社のお話し

今回は、信夫山山頂の羽黒神社のお話です。大わらじが奉納されている神社ですから、少し勉強をしておきましょう。
さて、羽黒神社は昔、「羽黒大権現」といって神仏混淆(しんぶつこんこう)=つまり、神様と仏様を一緒に祀(まつ)った神社でした。しかし、日本は神国であるとして、明治2年の神仏分離令により、神社と定められ、立派な仁王門が取り払われてしまったのです。
羽黒神社の始まりは、よく分かっていません。

聖徳太子のいた推古天皇の時代“羽黒大権現みちのくに現れる”(628年)とあり、天安時代、慈覚大師が古刹(さつ)「薬王寺」を開く(857年)以前には、もう山頂にあったわけですね。
明治11年の「福島県神社明細帳」では、ご祭神は沼中倉太玉敷命(ぬなかくらふとたましきのみこと)、つまり30代敏達天皇ということになっていますから、黒沼神社由緒の石姫皇后の息子、ということになります
それにしても、昔の羽黒神社は立派な大社殿でした。高さは15メートルもあり、総ヒノキ造り、東西北には、ヒノキの一枚板に見事な彫刻が施されていました。保原の長谷川雲橋・雲谷親子が彫ったものです。
雄大素朴な神社でしたが、惜しくも昭和51年に焼け落ちてしまい、朱色のコンクリートづくりになっています。

その45 羽黒神社の結界の謎

「羽黒神社」のお話をもう少し続けましょう。なにしろ、古い古い神社ですから、いろいろ謎が多いのです。
大わらじを見に行った人は多いと思いますが、旧参道の最後の階段を登ると岩盤がむき出しになった険しい坂道になります。そこからが羽黒神社の結界といわれる聖なる領域になるのです。
昔は、階段の右手に寂光寺という山伏の総本山がありました。

岩坂には、昔、仁王門が有ったのですが、まず注連掛(しめかけ)岩が立ちふさがります。「参詣の人この石を踏まば必ず災いあり」と怖れられる岩で、さらにその上には仁王岩という二本の角を持つ岩盤がありました。
「昭和初めまではしめ縄が掛けてあったが、わらじ奉納が大きくなってから邪魔になり、戦後にはついにダイナマイトで破壊されちまった」と古老のお話です。
ようやく仁王門をくぐると、また岩塊があります。そこには義経の馬の足跡石、弁慶の膝かぶ石、大神宮石塔、西坂珠屑(しゅせつ)の名月の碑がありますが、それは現在も残っています。
面白いのは、膝かぶ石の上に風穴という岩穴があって、つねに微風が出ていたというのです。羽黒山のオシミモノといわれる地下の黄金から吹き上げる嵐といわれますが、今は塞がれているのか見つかりません。残念。

その46 女性に厳しい信夫山

信夫山は「神の山」ですから、昔は厳しい戒律がありました。まず、羽黒山の氏子は四足(豚・牛等)・卵は、穢(けが)れものとして食べられませんでした。ただしウサギだけは、四足でも鳥として、何羽と数えるから食べて良かったそうです。
百姓(農業)をするときには、人も馬も鳥居をくぐれないので、鳥居の脇の「百姓道」(馬道)を通ります。今でも、御神坂(おみさか)の赤鳥居のわきには「百姓道」が残っていますね。
女性には一層厳しく、部落ではお産ができなかったり、死忌(いみ)、産忌、血忌があったり、羽黒山に参拝に行くにも正参道ではなく女坂といわれる脇道をたどりました。

ところが、そこにも怖い妖怪が出たのです。女坂のユズ畑の外れに「小豆とぎ石」という祟(たた)り石と、ナカンジョの池という暗い小さな池があります。夕方になるとそこに不気味な老婆が現れ、「小豆とぎましょか、それとも人とって喰(く)いましょか、ザックザック」と、何かつぶやいていました。そのため、暗くなったら女性は決して近づかなかったそうです。
それから、西の羽山は御山の奥ノ院なので、女性禁断です。知らないで登ってきた子守の娘は、たちまち石にされてしまったそうで、「子守石」が今も残っています。なにしろ女性には厳しい信夫山だったのです。

その47 宮沢賢治と信夫山の歌

宮沢賢治といえば、「雨ニモマケズ」で有名な詩人であり、「セロ弾きのゴーシュ」「銀河鉄道の夜」などの童話作家として知られています。岩手の農民作家と自称して、「風の又三郎」などの話を独特の土地のなまりで書いていますね。
一方、すごい科学者で生物、鉱物に精通し岩手の花巻農学校で多くの農学生を育てました。熱心な法華経信者でもあり、とにかく、とても謎めいた人なのです。

その宮沢賢治が、一度だけ福島を訪れたことがあります。大正5年、当時、東京との往復で、福島を通過することが多く、その途中で、福島に下車したものと思われます。阿武隈川に立ち寄り、歌を詠みました。
「ただしばし 群れとはなれて 阿武隈の 岸にきたれば こほろぎなけり」の案内板が御倉邸にあります
信夫山についても一首詠まれていて、「信夫山はなれて行ける機鑵車(きかんしゃ)の 湯気のなかにて うちゆらぐかな」とうたっています。
当時は蒸気機関車だったので、頻繁に水の補給が必要でした。その湯気のなかに、信夫山がゆらゆらと揺らぎながら離れていく…という、ちょっと淋しい心境の歌でしょうか、信夫山は東京の行き帰りに、気にかかる里山だったのでしょう。
惜しくも、昭和8年37歳で亡くなりました。

その48 信夫山コラム2年目に突入!

信夫山について、いろいろな情報をお届けしているこのコラムも48話で丸1年になりました。また、月1回の信夫山特集全ページも、第12回で完結します。
おかげで信夫山に関心が集まり「こんな面白い話がたくさんあることを、知らなかった」という声が多く、信夫山コラムは2年目に突入することになりました!
さらに、8月からはFMポコと連携して、毎週月曜日午後4時10分から、信夫山コラムのお話をお届けします。

さて、この1年を振り返ると、信夫山がいかに豊かな自然・歴史・文化・暮らしなど、多彩な資産を持っているかが分かりました。
そしてこれからの信夫山を考えるとき、まずは、かつて福島市民にとって信夫山とはどんな存在であったのか? を理解してみることが大切だと気付きました。
では現在、人々にとって信夫山はどんな存在でしょう。考えてみる必要がありそうですね。これからは、信夫山を豊かに活用することが、街を元気にし、みんなの心を豊かにしていくでしょう。
花見山に次ぐ、観光スポットとして信夫山を全国にアピールすれば、街中の回遊も増加。スカイラインや、温泉、果物と連携した観光ネットワークも見えてきます。
信夫山はすごい可能性も秘めた山なのですね。

その49 信夫山の全まつり

信夫山のお祭りというと、わらじ奉納の「暁まいり」以外は知らない人がほとんどでしょう。
ところが一昔前までは、信夫山にたくさんのお祭りがあったのです。
夏になると、まず7月は盛大に「夏まつり」が行われました。この時は、信夫山の上下の氏子が全員で「御神坂(おみさか)掃除」といって、南北西の旧参道を清掃しました。赤鳥居には大幟(のぼり)が立てられ、頂上の羽黒神社は、大したにぎわいになったそうです。

8月には「八朔(はっさく)の祭り」があり、これは特に福島一帯の商人が、もれなく参拝に集まりました。商売繁盛に特別ご利益のある祭りだったのですね。
10月には「秋季例大祭」があって、これは市民みんなが祝う、五穀豊穣の感謝祭でした。明治時代に新しく制定されたものだそうです。
年が明けると、まずは「元朝まいり」です。昔は、大晦日(みそか)の宵から元日にかけて、福島全域から人々が参拝に集まりました。そして新年の朝、みんなで山頂からありがたい初日の出を拝んで、一年の幸せを祈願したのだそうです。
ご存じ2月の「暁まいり」は今回省いて、最後は旧3月の「春祭り」もありました。天下泰平と五穀豊穣・万民豊楽の大祈願祭だったそうです。
やはり、信夫山は大した山だったのですねー。

その50 信夫山のパワースポット①

不思議な伝説や、謎に満たされている信夫山。となると、当然、パワースポットや強烈なマイナスイオンが流れているスポットが存在します。
昔から、神社のあるところは不思議と霊気が強く、お参りをすると何か心身がすがすがしくなることは、皆さんも経験をしていると思います。
実は、信夫山は、山全体が、そんなパワーに満ちた山なのです。

信夫山の西端「烏が崎」は、誰もが知っている絶景の展望デッキです。不思議なことに、ここで親指と人差し指で輪をつくると、強引に引っぱっても外れないとか。信夫山にデートに出掛けたときに、彼に輪をつくってもらい、引っ張って外れなければ、2人は結ばれるかも!
烏が崎に登る手前の月山駐車場の下に「空海の座禅石」があります。昔、弘法大師(空海)が座禅を組んだ、という伝説がある大岩。その石に登って座禅を組むと、不思議に頭が冴え、すーっとストレスが消えていくようです。
羽黒神社の大わらじの右奥には、上部に円相が刻まれた石碑があります。この丸い円の中央に頭を当てると、たちまち頭痛が治るといわれています。円相は大日如来を表し、古くから多くの人の悩みを取り除いてきたそう。不思議ですね。
続きは次号に掲載します。