その31 不思議な一字一経石
信夫山には、不思議なものがたくさんありますが、一字一経石もその一つです。
旧参道の急坂、御神坂(おみさか)を登ると、ぱあっと視界が開け、鳥居平に出ます。羽黒神社の赤鳥居が出迎えてくれ、手前の右手には八幡神社、左手には念仏橋の碑があります。信夫山では珍しい平地で、温かい日だまりの別天地、といった雰囲気の場所ですね。
驚いたのは、八幡神社の向かいを何げなく眺めた時です。道に捨てられている小石に、なにやら文字のようなものを見つけたのです。拾ってみると、まぎれもなく古色蒼然とした墨色で、一字ずつ経文が書いてありました。
気をつけてみると、あちこちに同じような小石が散らばっています。後で聞くところによると、そこは昔の十王堂の跡で、いわゆる一字一経石がそれでした。
山伏修験の僧侶が、修行のために書いたもので、次第に信仰に厚い参拝者にも広まり、祈りを込めて奉納されたといいます。
八幡神社の屋根には、戦時、息子の出征無事を祈った、母親たちの一字一経石がたくさん乗っていたそうです。
一字一経石は、羽山の月山駐車場の下にある、座禅石の周辺にもたくさんありましたが、今は見ることがまれになりました。見つけたら、超ラッキーなお守りになりますよ。
その32 信夫山のお産
信夫山は神聖な山だったので、西の羽山は女人禁制であり、部落でもお産をする場所が限定されていました。
タンタラ清水の下に「産居(さんきょ)」という産小屋があって、産婦はそこで別火(べっか)をして、お産をしたのです。別火とは、食時の煮炊きの火を別にすることで、明治の前まで続いたそうです。
臨月を迎えた産婦は、土間に灰をまいた上にむしろを敷き、そこに腰掛けます。21把のわら束を背中に置き、1日に1把ずつ取って、21日過ぎないと平らに寝ることは許されません。悪い血が落ちるからという理由でした。
ある日、産居でお産をした女性が寝ていると、たまたま付き添いの人が居ない時に、狼(オオカミ)がやって来て、母子共々かみ殺されてしまいました。そこで薬王寺のだいこく(奥さま)にお願いし産居を作ってもらい、部落でお産ができるようになったのです。
それでも産婦は、日に当たることも、羽黒山の参道を横切ることも許されず、どうしても外にでる時は、手ぬぐいをかぶっていたそうです。
また、火を大事にしているので、絶対に火を絶やしてはいけない、産後、身体が治っていないので75日過ぎるまでは生柿とカボチャは食べてはいけない、家族とは100日過ぎたらやっと暮らせるという、厳しい習わしだったのです。
その33 鶏頭森(けいとうもり)のびっき石
今回は、びっき石(蛙石・ひきがえるの意)を紹介しましょう。
福島県文化センターの東上、東陵高校の上に鶏頭森という峰があります。その頂上に、大きな蛙の形をした不思議な自然石があります。誰かが作ったものではなく、自然に蛙形になった石です。
いつの頃からか目が刻まれていて、その背後には明治11年7月に「雷神碑」が建立。鶏頭森は鎮守水雲神社の奥之院ともいわれる、雨乞いの山だったのです。
昔、信夫山の周囲は一面の田んぼで、御山新井村の人々は水にとても苦労しており、雨が降らない日が続くと雨乞いをしていたそうです。「第三小学校郷土誌」には、わらで龍を作り、雨乞いをしたと言う記事も残っています。
びっき石は、力強く前足を張り、雨を呼ぶ姿がとても頼もしく、願いを込めた村人は、蛙石に集い、雨乞いをしていたのです。
信夫山には「四十八石」と名付けられた、信仰の奇岩があちこちに存在しますが、不思議なことに、びっき石はその中に含まれていません。
現在は、前足の一部が破損していますが、勇敢な姿で信夫山に鎮座しています。一度、足を運んでみてはいかがでしょうか。びっき石も、信仰の深い信夫山ならではの伝説の一つですね。
その34 人気になった信夫山ねこ稲荷
今、空前の猫ブーム!そこで、話題になっているのが「信夫山ねこ稲荷」です。信夫山で猫の幸せ祈願ができると大人気に。昨年9月の「猫のしあわせ祈願祭」には県外からもたくさんの猫ファンが訪れました。
そもそもなぜ、ねこ稲荷なのかということですが、そこが伝説の信夫山のすごいところで、正当な理由があるのです。
昔々、「信夫の三狐」といわれる狐(きつね)がいました。中でも一番人化かしの上手な、「御坊狐」が信夫山に住んでいて、人を化かしては喜んでいました。その化けの皮をはがしてやろうとした馬方が、娘に化けた御坊狐に、逆にだまされて馬ふんを食わされたなど、面白い話がたくさん残っています。
さて、一方で人のいいところもある御坊狐は、ずる賢い鴨左衛門狐にだまされて、自慢の尻尾を失ってしまいました。そこで、御山の御房さまに諭されて蚕(かいこ)を守る稲荷となったのです。当時、信夫山は養蚕が盛んで、蚕を食い荒らすネズミを退治する御坊狐は、部落でとても大切にされたのでした。
そこで、いつのまにか「ねこ稲荷」と呼ばれるようになり、猫を愛する人たちがたくさんに参拝するようになったのです。
いまでは、立派な赤鳥居が立ち、猫ファンが愛する猫の写真を奉納に訪れています。
その35 信夫山の名前の由来
「信夫山」の名前の由来はさまざまで、天保12年(1841年)に志田正徳が書いた記録書「信達一統志」によると、信夫山に生えていた草でも木でもない植物・篠(しの)を、「始・篠生=はじめしのしょうずる」、としたことから、篠生(しのぶ)と呼んだ説が書いてあります。
また、信夫山に生えていた、特有の忍草(しのぶ草)からきたという説も。さらに、学術語のアイヌ語源説もあり、SHI-NUP=シヌプからシノブに転化したとも言われています。シとは大きい、ヌプは平原、そして、NUPURI=ヌプリは石山を指すそうで、金田一京助博士は、このシヌプ説を支持したそうです。
もう一つ、信夫山はかつて青葉山とも呼ばれていました。山伏の活躍した、山岳信仰の中心地であった西峰「羽山」を大羽山と呼び、その同音から転じて大葉山、青葉山と呼ばれるようになった説があります。
伊達政宗が信夫山に陣を構え、上杉の福島城と戦った松川合戦の後、仙台に帰った政宗が仙台城を築いた折に、山伏の恩に報いるため「青葉城」と雅号をつけた話は有名ですね。
一方、この土地の人々は、敬愛と信仰の念を込めて「御山」と呼んできました。「信夫山」という名前にたどり着くには、色々な経緯があり、その時の人の思いが諸説にもあふれているのです。
※「その24 仙台の「青葉城」は信夫山の古名!?」も読んでみてください。
その36 旧参道、御神坂を登る
今回は、御神坂(おみさか)を紹介しましょう。
信夫山墓地の上に三方の分かれ道があり、中央が羽黒山の旧参道で、御神坂といいます。
暁まいりに登る人も多いのですが、この道は自動車道路とは違う信仰の道として、本来の信夫山の姿をとどめています。
昔、村々の大わらじ奉納は、この急坂を担ぎ上げていました。登りつめたところが、念仏橋の碑と、正八幡宮が左右にあるT字路で、正面に羽黒神社の赤鳥居が出迎えてくれます。まるで、別世界の様な鳥居平です。
かつて、御神坂には参拝する人を泊める宿坊が並び、参道に面したところを「ミセ」といって、休憩所を設け、土産物などを扱っていました。独特の石垣が積まれ、木枯れた小宮や石燈籠が並ぶ、江戸時代の雰囲気が色濃く残る路(みち)です。
中ほど西にある観音堂は、信達三十三観音の札所三番で、安置されていた観音は、現在、薬王寺に保管されている福島市指定有形文化財の「如意輪観音坐像」です。
西上にあるのが「ねこ稲荷(西坂稲荷)」。御山のいたずら御坊狐が神通力を失ったことでゴンボ狐となり、改心をして、蚕の守り神になったという伝説があります。
行楽シーズン、ゆっくり歩きながら、風景を楽しんで旧参道の歴史を感じてみてはいかがでしょうか。
その37 信夫山にも来た弁慶
弁慶は信夫山にも訪れたことがあると言われており、その痕跡が残っています。今回は、そのお話をご紹介しましょう。
県庁(福島城)からまっすぐ突き当たった本参道(祓(はらい)川口)の左に、「弁慶の足跡石」があります。さまざまな怪力伝説がある弁慶ですが、この時は大きな釣り鐘を担いでどんどんと登ったそうです。
すると、固い岩がへこんで足跡が付いたのでした。その時の巨大な足跡が3つ、くっきりと残っています。ぜひ、弁慶と足の大きさ比べをしてみてはいかがでしょうか?
もう1つは羽黒神社の石段の下に、「弁慶のひざかぶ石」があります。弁慶が思わず岩に膝をぶつけたら、これまた固い岩がぼっこりとへこんでしまったそうです。この「ひざかぶ石」は、へこんでいる所に膝を当てると痛みが和らぐと言われています。
更に不思議なことに、老若男女、体型が全く違う人、誰もが「ひざかぶ石」に膝を当てると、まるであつらえたかのようにぴったりと収まるのです。先日も数名でトレッキングに訪れた方々が、かわるがわる膝を当てていましたが、皆さん自分の膝にフィットすると驚いていました。
これらは信夫山四十八石のうちの2つとしても知られています。
多くの地域で伝説を残している弁慶は、信夫山にも来ていたのですね。
その38 信夫山のトイレ最新事情
ハイキング・トレッキングで、女性にとって大切な情報の1つが、コース上にあるトイレの位置と設備の情報です。
信夫山には現在、東・西・南の展望台に、それぞれキレイな水洗トイレが整備されています。北側にはトイレがありませんので注意しましょう。
東は、第二展望台公園にあり、駐車場に並んでかわいいデザインのトイレがあります。西のトイレは烏(からす)ヶ崎に行く手前の月山駐車場にあり、最近のものは障害者向け、乳幼児向けの多目的トイレが併設されています。
南は、第一展望台の北側に設置されていて、清潔で安心して使用できます。
北コースの探索の際は、第二展望台のトイレを利用しましょう。
ただし、冬は12月から3月いっぱいまで凍結防止のためクローズとなりますので、ご注意を!
また、第二展望台へのカーブ入り口に、信夫山ガイドセンターができました。定休の水曜日と冬期の閉館以外はトイレを貸してもらえます。
一方、信夫山の入り口付近には、駒山公園と、護国神社向かいの太子堂広場に水洗トイレがあります。もちろん駐車もOKです。
信夫山の麓にも、児童遊園にキレイなトイレができましたし、文化センターの北の春日町緑地トイレがありますよ。
その39 稚児岩と硯(すずり)石の話
前に、蛙(カエル)の形をした雨乞いの石「びっき石」の話をしましたが、実は、信夫山には、もう一つ有名な雨乞いの岩があったのです。それが信夫山48石の一つ「稚児岩」です。
現在、東陵高校の西、グラウンドの上あたりに、大きな孤立岩があります。岩の上がちょうど舞台のように平らになっていて、昔は、そこが稚児の舞台でした。
田んぼの水が枯れると、周辺の農民が集まって雨乞いの祈祷(きとう)を行い、稚児さん(児童)がその上で踊りを奉納したと伝わっています。
驚くのは、その岩の上に、さらに2メートルほどの四角い岩が乗っていて、それが「弁慶の硯石」だというのです。確かに硯のような形をしています。さすが弁慶だけあって硯も大きいですね。
もっとびっくりしたのは、稚児岩の左の小さな池(たんたら清水の下流)を見たときです。すごい数の蟇蛙(ヒキガエル)が、池に産卵をしていました。年に一回、信夫山の全山から蟇蛙が集合するそうです。驚き!
もうひとつ、48石では、信夫山のトンネルの北側にも、神楽岩(ぼたもち岩)という大岩があって、やはり稚児が舞う雨乞いの岩だったそうです。
周辺には、さらに馬石、蛙石、二十三夜石、転び石等の巨岩があったそう。信夫山は本当に不思議な山なのですね。
その40 信夫山の化石について
新しくオープンした「信夫山ガイドセンター」に、信夫山から採れた化石が展示されています。
昭和時代の人は、信夫山から化石が出ることを知っていました。木の葉や、貝の化石、サバ科の魚の化石などが見られますが、見つけた人は自由に採取して、遊んでいたそうです。
信夫山の東部の岩谷観音一帯には、凝灰岩(ぎょうかいがん)質の岩が重なり合っている地層が見られます。これらの地層は、約1300万年前の中新世(ちゅうしんせい)後期といわれる頃に、海底であった福島盆地に堆積(たいせき)したもので、
地層の中から木の葉や二枚貝、サバ科の魚の化石が出土します。最近では、信夫山のトンネル工事のときに、木の葉の化石が多く出ました。
信夫山ガイドセンターに展示されている化石は、福島市御山町の方が収集したもので、中には縄文土器とみられるカケラも含まれています。
今は亡くなられた、地質学者の入道正先生に話を伺ったところ、「信夫山周辺は入り海のような自然環境で、気候は浜通りのような温暖なものであったと推測される」とのことでした。
その後、50万年前頃に信夫山が誕生してくるわけですが、周辺では縄文時代の土器もみられますから、本当にすごい物語を秘めた山なのですね。