福島市の中心部にある信夫山の情報サイト

その11 信夫山は恋の山

ご存知でしたか? 信夫山ほど、恋の歌が多く詠まれた山はありません。平安の昔から、みちのくの信夫山は歌枕として数多く登場しています。
「きみ恋ふる 涙しぐれと降りぬれば 信夫の山も色ずきにけり」とか「恋詫びぬ 心のおくの忍ぶ山 露もしぐれも 色にみせじと」など、平安の貴族は“しのぶ恋”“忍び泣く”“しのんで通う”“耐え忍ぶ”などの恋の思いと、みちのくの響きを重ね合わせて、憧れの信夫山のイメージを心に描いていたのでしょう。

歌枕とは、和歌を詠むときに定番として出てくる名所のことですが、信夫山を読んだ和歌は実に90首もあり、全国的に著名な歌枕でした。面白いのは、信夫山の羽黒神社の下に、有名な「名月の碑」がありますが、そこには「名月や ものに触らぬ 牛の角」と彫られています。「名月の月の明るさに、牛も角を触らず歩くことができる」と書いてあると思うと、さしたる名歌とは思えませんね。しかし、それは勉強不足で何と「牛の角」とは、平安時代の恋の隠語でした。すると、この歌の意味は、「月の明かりをたよりに、誰にも会わずに、あなたのもとへ忍んで行きます」という意味になるのですね。深い!
歌を読んだのは、信夫山御山部落の名主、西坂珠屑(しゅせつ)という俳人です。信夫山は文化の山でもあったのです。

その12 信夫山「北限のゆず」

11月に入って「信夫山のゆず」がすっかり黄色く色付いてきました。
かつては「北限のゆず」といわれ、「見た目は無骨だが皮が厚くて香りが強く味がいい」と評判でした。確かに「くだりもの」といわれる、温かい地域で育ったユズは、見た目はきれいで柔らかなのですが、信夫山のユズと比べると味も香りもだいぶ下がります。
信夫山のユズは、「御山のゆず」とも言われ、大わらじ奉納の「暁まいり」のときに、参拝者はユズ湯、ユズ飴、ユズ味噌などを必ず買って帰ったものでした。

信夫山にユズが栽培されたのには伝説があって、信夫山頂上の羽黒権現様が都からお渡りになったとき、お守りに持ってきたものがユズだったといわれています。御山部落では家の周りにユズを植えて「いぐね」の守りとすることになったのがユズ栽培の始まりだそう。ユズは香気が高く、都では食料にも薬用にも使われ、軒に下げただけでも魔除け・厄除けになるほど効能が高かったといわれています。
信夫山では、江戸初期から栽培されていたようで、昭和元年の資料には栽培430本、産量約10トン、販路は遠く新潟・山形・北海道まで売られていたそうです。現在では、温暖化の影響で岩手県までユズは出来るようですが昔は北限だったのですね。

その13 信夫山で一番高いところはどこ?

信夫山は、信夫三山といわれる三つの峰からなっていて、東から順に「熊野山」「羽黒山」「羽山」と呼ばれています。信夫山の一番高いところはどこか知っていますか? というと、福島の古い人は、自信を持って熊野山268㍍と答える人が多いのですが、実は、信夫山の高さは3度も変わっているのです。
国土地理院の昭和52年の地図によると、大わらじが奉納されている羽黒山は意外や260㍍と一番低く、鴉が崎のある羽山は267.6㍍で二番目、熊野山が268.2㍍で一番高いと表示されました。昔の人はそれを覚えていたのですね。

ところが、その後の測量で羽山が272㍍あることが分かりトップの順位が入れ替わりました。さらに、平成13年になって、羽山の湯殿山神社の後ろにある大日岩が、さらに3㍍高いことが判明し、信夫山の最高点は275㍍と正式に認定されたのです。当時の民友新聞や毎日・朝日新聞などを見ると「3㍍高くなった信夫山」として記事が出ています。それを指摘したのは福島市町庭坂の土井勝さんという山岳山頂研究会の方でした。
深秋の今、鴉が崎に立つと福島市の大西部がパノラマのように広がり、実に爽快な気分です。ぜひ、登ってみましょう。

その14 信夫山はだれがつくった?

今回は、信夫山が誰がつくったか、という子供が感心する伝説です。
昔々、どこからか大徳坊と呼ばれる大男がやってきました。大徳坊はたんがら(背負い籠)に三背ほど山土をいれて背負って来たといいます。そして、はじめに土をあけたところが「羽黒山」です。つぎに土をあけたのが「熊野山」で、三つ目に土をあけたのが「羽山」になりました。

「羽黒山」は、大わらじと羽黒神社が祀(まつ)られている信夫山の中心ですし、「熊野山」は金華山ともいわれ村人の憩いの場でした。「羽山」はもちろん鴉が崎がある所ですね。
そして、底を見ると土くれが少し残っていたので、ぽんと空けたのがあの一盃森です。「わあ、そうだったの?」と子どもは目を輝かせます。
話はまだ続いていて、腹がへったので昼飯にしようと飯曲輪(まげわっぱ)を開いてみたら、飯の間に小石が混ざっていたので、箸でつまんで投げたのが石が森だといいます。石が森とは現在の阿武隈急行の卸町駅の脇にある巨岩の並ぶ小山です。一度は子どもと見に行ってみましょう。伝説の信夫の三狐の一匹「鴨左衛門」の巣穴があったところに、今は立派な朱色のお稲荷様が祀られています。
こんな風に、信夫山にはたくさんの伝説が残されています。森合の一盃森も登ってみましょう。

その15 信夫山の二匹の妖怪

今回は、信夫山の主(あるじ)といわれた、二匹の妖怪の伝説を紹介しましょう。
信夫山トンネルの北に、「酒のあかい」というお店があります。その脇に「七曲り坂登り口」という看板がありますが、その七曲り坂は飯坂の佐藤庄司が、わざわざ切り開いたといわれる急坂です。
昔々、その七曲り坂には巨大なムカデが住んでいたのでした。そのムカデは、せっかく村人が育てた作物を食い荒らしたり、ときには人を襲ったりと、信夫山の主を名乗り悪さを繰り返していたのです。

一方、信夫山の南の、現在の噴水公園のところには、巨大なオロチが住んでいて、こちらも信夫山の主を名乗っていました。そこは昔は黒沼といわれた底なし池があったところで、あちこちに動物の骨や、白い人骨が転がっていたといいます。
ある日、この二匹が信夫山の西端の鴉が崎でばったりと出会いました。そして、たちまち激しい戦いとなり互いに傷つけあって、ついに二匹とも滅んでしまったのです。
江戸時代の後期、文久2年に山火事が起きて、その時にムカデの白骨が焼け残っていたのが発見されました。「五月十六日、羽山大権現宮前ヨリ野火発シ、ソノ節焼忙イタセシムカデ、白骨ニテ相残ル 信夫山麓森合村、願主清作」と書いた古文書がちゃんと残っています。
やっぱり信夫山はすごいですね。

その16 信夫山五つ石の話

信夫山といえば信仰の山。昔から信仰にまつわる伝説や伝承が数多く残されています。今回のお話は、信夫山48石といわれる不思議な形の岩の伝説です。昔は、信夫山を信仰する人は誰もが知っていて、敬ったり怖れたりして大切にしていた霊石でした。
48石は信夫山のあちこちにありましたが、例えば、皆さんご存知の第一展望台の上には、「五つ石」といわれる奇岩があります。江戸時代までは、西の羽山は女人禁制の厳しい修験の山だったのですが、そこに修行に来ていた若い山伏僧を追って、母親が一つ手前の寺山(第一展望台)に小屋を作って息子の帰りを待ちわびていました。

何年待っても、若い僧の修行はなかなか終わらなかったそうです。そのうちに母親は歳をとって、いつの間にか熊野のババと呼ばれるようになり、ついに待ちくたびれたババは力尽きて亡くなってしまったのです。
そのババは、5匹の白犬を飼ってかわいがっていたのですが、その犬たちはババが死ぬと、悲しくて七日七晩吠(ほ)え続け、とうとう石になってしまったそうです。
五つ石を後ろから見ると、羽山を見つめる5匹の犬の形が、悲しくも並んでいるのですね。
今は、道路整備などで多くの石が失われています。

その17 信夫山の狐塚の話

信夫山トンネルの入り口右側に税務署がありますが、その周辺を狐塚といって、昔、信夫の三狐が集まっては、人を化かす相談をしていたところだったといいます。
例えば「一盃森の長次郎」です。この狐はとても頭が良くて、どんなにだまされまいと頑張っても人間は出しぬかれて、コロリと化かされてしまうのでした。
ある日、様子をうかがっていた馬子の目の前で長次郎が葉っぱを頭に乗せてくるりと三回転すると、見事に美しい嫁子に化けました。そして山を降りて庄屋の屋敷に入って行ったのです。

庄屋はかわいい娘が帰ってきたと大喜び、さっそくごちそうを並べだしたのですが、そこに馬子が飛び出し、今日こそ狐の正体をあばこうと大騒ぎに。庄屋を説き伏せて嫁子を納屋に押し込め、松葉でいぶします。
しばらくして納屋から出してみると、嫁子はぐったりとして死んでしまった様子でした。驚いた庄屋は怒り狂い、娘のかわりにお前の命をもらうと怒鳴り散らします。真っ青になった馬子は平謝り。通りがかった僧がとりなし、おわびに頭をそって丸坊主になり、命からがら退散したのでした。それを物かげから見て大笑いしていたのが僧に化けた長次郎狐でしたとさ。
次は、意地悪な「石が森の鴨左衛門」の話です。どうぞお楽しみに。

その18 悲劇の鴨左衛門狐の話

信夫の三狐の一匹である、石が森の鴨左衛門の話は少々悲劇的です。
信夫山の北、鎌田の庄屋の家に男の子が生まれました。とても利口な子どもで、大きくなるにつれ、ますます神童ぶりを発揮し、その名は仙台まで届いたそうです。
すると、岩沼の竹駒神社から、ぜひ宮司にと使者がやってきました。喜んだ家族は祝宴を開き、鴨左衛門を送り出そうとしましたが、今度は京都の神社から「式典があるから出向くように」という便りが来たのです。

そこで、これはますますすごいことになってきた。と本人も喜び勇んで出発したのでした。
さて、鴨左衛門がようやく京都の神社にたどり着くと、そのときにはもう、先に来た人たちが黒山になっていました。そこで頭のいい鴨左衛門が、要領良く後ろからヌーッと手を出した途端、いきなり手を掴まれ正一位のハンコを手のひらにピタンと押されてしまったのです。
驚いて帰ってきた鴨左衛門は祝宴でも油揚げしか食べず、やがて疲れたと寝込んだ姿を月明かりで見ると、神罰に当たり耳まで口の裂けた狐そのものになっていました。「化け物だ!」とみんなに追い出された鴨左衛門は泣く泣く石が森に住みつき、それ以来、根性がねじ曲がり、小ずるい、意地悪な狐になってしまったのだそうです。

その19 名関脇「信夫山」の話

お正月にふさわしい、おめでたい? 話をしましょう。大相撲のファンの方はたくさんいらっしゃると思いますが、実は福島に双差し名人の「信夫山」というすごい力士がいたのです。
今は大横綱は「白鳳」ですが、昔は69連勝の大横綱「双葉山」がいて、いまだにその記録は破られていません。その時代(昭和15年)に旧伊達郡保原町から大相撲に入門したのが信夫山治貞でした。

実家は本間家といい、保原では名の知れた繭(まゆ)の仲買業者でした。入門後は、途中戦争に駆り出されたりと不運が続きましたが、なんとか相撲界に復帰し、猛稽古からどんどんと出世。昔の栃錦・若の花が活躍した栃若時代に、なんと新横綱「若の花」を初日に破ったことのある名力士だったのです。
見事、関脇まで上り詰めたその双差しの技は、玄人泣かせといわれるほどで、「りゃんこの信夫山」として、いまだに語り継がれています。
面白いのは、初めの四股名はあの「吾妻山」でした。一時期、本名の本間を名乗った時代もあったようですが、昭和24年に信夫山に改めてからは快進撃が続き、176㌢82㌔という小兵力士ながら、殊勲賞・敢闘賞・技能賞を8回も受賞。横綱を破った金星7個獲得という正に記録より記憶に残る名力士でした。今は、東京江戸川区にある泉福寺に眠っています。

その20 岩谷観音の話

信夫山の東端に「岩谷観音」という所があるのはご存じですね? 福島市指定の史跡にもなっていて、それは見事な磨崖仏(まがいぶつ)が60体も岸壁に彫られています。
磨崖仏とは、自然の岩面を半肉仏として彫刻したものです。
昔の人は今よりずっと信心深く、ご先祖さまが仏さまの世界で安楽に暮らせるよう、そして、自分も救われるようにと、一心に祈ったのですね。このような磨崖仏は世界中で見られます。

さて、岩谷観音は、もともと五十辺地区の豪族であった伊賀良目(いがらめ)氏が、洞窟に聖観音を安置したことに始まりました。福島藩主板倉家の歴代略記によれば、彫られ始めたのは1700年ごろとありますが、びっくりすることにはそれ以後も、明治の初めまで供養仏が彫り続けられたのだそうです。
また、岩谷観音には庚申塔(こうしんとう)も多く立っています。庚申信仰とは中国から来た信仰で、庚申(昔の暦で、かのえさるの日)の夜、人の中に住んでいる三尺(さんし)の虫が、寝ている時に身体から抜け出して、その人の罪料を天帝に告げ口し、天帝はその報告によって人を罰するというのです。だから、昔の人は行いを良くして、庚申の夜は眠らずに過ごしたのだそうです。岩谷観音は隠れた桜の名所、ぜひ一度、訪ねてみましょう。