その71 昔の暁まいりとは②
暁まいりの起源は、羽黒山が行った国家長久を祈る修正会(しゅしょうえ)という法会・神事の行事に始まります。これは、郷民が羽黒大権現の御開帳登拝し、朝日を拝むもので、「わらじまつり」と呼ばれるようになったのは、それに古代からの仁王信仰が結びついて、仁王門にわらじを奉納したものが、後に人々や飛脚問屋によって健脚・幸運のお守りに転じたものといわれます。
はじめ、三尺(約90センチ)ぐらいだったものが、日清・日露戦争の戦勝祈願を機に、一層大きくなり約4メートルに。大正時代になると村々が競い合い、6~7メートルになって境内の大杉に取り付けるようになりました。今では12メートルにも巨大化しています。
先週号で書いたように、戦後に再興された暁まいりと大わらじは、熱狂的な祭りとなって、福島市周辺の地域の人々も臨時列車や臨時バスで押しかけてきました。商店や食堂、映画館も夜通し営業となり、市街地の人口は一挙に倍にも膨れ上がったそうです。
羽黒神社は農産の女神「稲倉魂神(ウカノミタマノカミ)」で、縁結びの神。深夜の参道を男女が互いに助け合って登り、縁が誕生しました。神社では護摩壇でお札が焚(た)かれ、火渡りがあり、名物のゆず湯・ゆず飴・縁起だるまを販売。みんな心から満足して帰ったのですね。
その72 本当の暁まいりは夜
2月10日(金)の昼間が「大わらじ町中巡行」で、午後3時に信夫山羽黒神社に大わらじ奉納となります。そして、午後6時ごろからが、本当の「暁まいり」の始まりなのです。
数万人が押し寄せたといわれる昔の暁まいりの行程は、今はよくわかりませんが、何しろ夜を徹して参拝者が登り、最後は、文字通り朝日を拝んで帰宅する者が多かったという話です。
実は、つい先年までは、本当の山伏たちが麓の黒沼神社で採灯式という神事を行って、ご神灯をもらい受け、法螺(ほら)貝を吹き鳴らしながら、たくさんの参拝者を引率して御神坂(おみさか)を登って行きました。
御神坂では、一番目の小宮「八幡神社」の前で御山部落の山伏たちが出迎え、10本を超える松明(たいまつ)に火をもらい受け、明々と道を照らしながら赤鳥居をくぐり羽黒神社を目指しました。白装束の山伏と参拝者が入り混じり、にぎやかな行列です。
羽黒神社に到着すると別の山伏の一団が待ち構えていて、祈祷(きとう)式が始まり、続いて護摩焚(た)きが行われます。巨大な炎が収まると、なんと山伏が火を崩し、火渡りの行が行われます。一般の参拝者も次々と火を渡って、無病息災を祈るのでした。そんな行事が取り止めとなったのは残念ですね。
その73 信夫山トンネルの話
さて、今は信夫山トンネルを通って、福島市の南部と北部を自由に往来することができますが、ほんの50年前までは、信夫山の北側に行くことはなかなか大変でした。
信夫山の東の国道4号か、福島駅からの路面電車で競馬場前を通り、松川の鉄橋を渡って瀬上方面に行くか、西の飯坂電車か飯坂街道を経て、福島市北部に行くしかありませんでした。
昭和40年に信夫山トンネルが掘り始められ、昭和45年に完成。国道13号が開通しました。
ここから、福島市内の交通体系が大きく変り、昭和46年には、長年「チンチン電車」として市民に愛されてきた路面電車が廃止されてしまいました。さらに、昭和50年に信夫山に第2トンネルが完成し、現在のような複線となったのです。
それからの北部地域の発展は目覚しいもので、幹線道路が整備され、JA福島ビルをはじめ、次々と新しい建物ができてきました。
昭和57年には信夫山に新幹線のトンネルが完成し、東北自動車道とともに世は高速交通時代に入りました。今年度内には東北中央道が開通。一層便利になるでしょう。
イオン周辺には、福島の中心街に匹敵する新しい商業街区が形成され、にぎわっています。信夫山トンネルによる影響は計り知れないほど大きいものでした。
その74 ひとつひとつ違うご利益が
「御神坂(おみさか)」は、信夫山墓地の頂上、三差路の真ん中のところです。昔の羽黒神社への参道ですが、そこには江戸時代から続く史跡が残っています。
興味深いのは、六供(ろっく)の小宮といわれるお宮が並んでいること。時代を感じさせるお宮ですが、それぞれに異なったご利益があります。
登って最初に出会うのが右「正八幡宮」。南無八幡大菩薩で知られる戦いの神ですから、昔は出征兵士の武運長久で、現在は試験・就職の祈願にご利益があります。
次に羽黒神社の赤鳥居があり、その左が「天神社」です。天神さまは学問の神であり、雷神・農耕神でもありますね。
さらに登ると、「羽黒観音」があり、その上が「ねこ稲荷」です。その少し上左に「牛頭天王宮」がありますが、なんと京都の八坂神社(祇園社)とつながりがあるといい、病気を祓(はら)うご利益があります。
さらに上右の、江戸時代の飛脚問屋島屋の石燈籠の上に「三宝荒神」があります。荒神とは火の神で激しい験力を持ち、火伏・厄除けにご利益が抜群です。その上が「山王宮」で山の神・田の神つまり農耕の神様ですね。最後が御神坂頂上左の「一宮明神」で、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全を願います。
昔の人は信心深かったので、一つ一つ心を込めてお参りをしました。
その75 今年も「ねこの幸せ祈願祭」開催!
信夫山に登場してから、ねこファンに急に知られるようになったのが「ねこ稲荷」です。
何が注目されたかというと、信夫山で「ねこの幸せ祈願ができる」というところ。しかも、愛猫の写真をケースに入れて、立派な奉納ボードに掲示してくれるのです。
今年の「ねこの幸せ祈願祭」は4月16日(日)に決まりました。会場は信夫山護国神社で、午後1時から受付開始、テント張りの会場で持参したマイ猫写真にメッセージを書き込んだり、お礼をもらったりして、2時に護国神社でご祈祷(きとう)が始まります。
ご祈祷が終わったら、いよいよねこ稲荷へ。急坂を登ると赤鳥居が並び、昔の雰囲気がただよう御手洗池(みたらしいけ)の奥に、大きな写真奉納ボートが見えます。そしてねこ稲荷の小宮が・・・。皆さん心を込めてマイ猫の幸せを祈ります。
現在、写真は200枚を突破。フリーで訪れる人も多く、増殖中です!
実は、この猫稲荷は「西坂稲荷」という正式な名前があって、伝説の「ご坊狐」の稲荷さま。人化かしの名人だったのですが、自慢のしっぽを失って改心し、蚕を食い荒らすネズミを退治する守り神になったのです。
地域の人に愛されたねこ稲荷は、今では猫ファンの聖地になっています。全国にPRしたいですね。
その76 女性だけの会(二十三夜講)
信夫山には「二十三夜塔」という不思議な石碑があちこちにあります。
「二十三夜に、女性だけが集まって開く秘密の(?)集会だった」という謎めいていますが、これは室町時代の後期に京都の公家社会で始まった「月待ちの行事」で、やがて民間にも広がり近年まで続いていたものです。
何かというと、月の出が一番遅い、旧暦二十三日の夜は、深夜0時ごろになってようやく月が昇り始めます。しかも、その月は下弦の月で、特別の霊力があると信じられていました。
その月の光を浴びると若返りや、不老長寿の効力があるといわれていて、女性たちは心を清めて月の出を待ったそうです。春は牡丹餅(ぼたもち)、秋は御萩(おはぎ)を23個お供えしました。
ところが、時代が下るともうひとつの楽しみも加わってきました。みんなで持ち寄った料理を食べながら、女性たちは真っ暗なその夜だけは、思いっきり舅(しゅうと)の悪口を言っても良かったのです。それがだんだんと安産や子育て、家内を相談する「観音講」に変っていったのですね。
信夫山で有名なものは、羽黒神社の登り口右にある「弘安の逆さ板碑」で、文政(江戸時代)の碑なのに弘安(鎌倉時代)の文字が逆さまに書いてある、つまり再利用しています。二十三夜塔は羽黒神社境内や、岩谷観音にもありますよ。
その77 天台宗の古刹「薬王寺」
信夫山の第一展望台のある峰を、寺山とか青葉山と呼んでいますが、その頂上にあるのが青葉山「薬王寺」です。
その歴史は古く、天安元年(857年)慈覚大師により開山されたと伝えられています。
江戸時代の初期、福島藩主・堀田正仲は福島城の鬼門の要とし、後には板倉藩の祈願寺として、幕末まで度々記録に登場しています。
ご本尊は、阿弥陀如来坐像ですが、別の間の護摩堂には秘仏日の出不動尊が祀(まつ)られています。天台密教の護摩祈祷(きとう)の本尊ですが、剣と網を持って怖い顔をしています。
昔、本道に忍び込んだ泥棒が、不動尊の金縛りにあって、朝まで動けなくなり捉えられた話が有名ですね。
また、御神坂(おみさか)にある羽黒観音堂から預かって保管している如意輪観音は、福島市の有形文化財として指定されている優美な仏さまです。
もうひとつ有名だったのが元禄の大鐘で、薬王寺の晩鐘として、福島八景の一つに数えられていました。現在は新しい鐘楼が作られています。
薬王寺は、江戸後期から福島俳壇のサロンにもなり、多くの俳人・文人が集まりました。明治41年には東北六県のイベント「奥州俳人大会」が開催されるなど、いわば福島の文化の中心でもあったのです。やはり、信夫山は大した山なのですね。
その78 謎石の多い信夫山北側
信夫山の北側というと、あまり知られていないのではないでしょうか。
信夫山トンネル北の国道13号も、昭和初期の写真を見ると田んぼの真ん中を通る田舎道で、馬車がようやく擦れ違えるぐらいの道幅しかなかったのが分かります。
ですから、信夫山北側には昔のお話がいっぱい残っていますね。
例えば、福島駅方面からトンネルを抜けて左の、和食店「升冨 しのぶ野」の辺りは「転石」という住所です。昔、子守の娘が信夫山の悪口を言ったら、頂上から大石が転げ落ちてきて、憐(あわ)れ娘は押しつぶされてしまったそうです。
つい、60年ぐらい前まで田んぼの真ん中に大石がありましたが、現在は辻(つじ)のところに転石の石碑が立っています。
一方、トンネルを出て右手の信夫山中腹には、ぼたもち岩(神楽岩)という大岩があって国道からいつも見えていました。最近は雑木に隠れて見えなくなりましたが・・・。
また、「酒のあかい」から山裾の道を東に進むと、旧道沿いに馬石・蛙石・三日月岩・二十三夜石・烏帽子岩などの拝み石があって、一つ一つにいわれや言い伝えが残っているそうです。
松川の護岸工事で壊された「猫石」は、その後工事に関わった作業員が亡くなり祟(たた)り石といわれたそう。現存の石はいつまでも伝説と一緒に残って欲しいですね。
その79 信夫山公園の桜あれこれ
信夫山公園は、明治7年に明治政府から市民の公園として認可され、駒山公園から整備が始められました。なんと、東京の上野公園と同じ時期だそうです。
現在の信夫山入口「芝生公園」は、当時、「黒沼」という大きな沼で、その昔、沼の主・オロチが住んでいたところといわれていました。駒山公園の工事で、ずいぶん小さくなったそうです。
近年まで沼が残っていましたが、昭和60年代に苑池化され桜の噴水公園となりました。
明治32年には、福島町長・鐸木(すずき)三郎兵衛による「信夫山を桜の名所にしよう」との呼びかけで、町の有志により1万本のソメイヨシノが植えられました。100年後の世代が楽しめるようにと、祖先からの贈り物だったのですね。現在では信夫山全山で約2000本、公園内で200本余りの桜があるといわれています。
さて、護国神社の道路向かいが信夫山公園で、昔は愛宕山(あたごやま)と呼ばれ、伊達政宗が本陣を構えて福島城と松川合戦を行ったところです。今では、桜の季節に花見茶屋が立ち、賑(にぎ)わいます。信夫山公園(太子堂広場)の東の、一段下がったところが堂殿「大日堂広場」で、桜の名所です。たくさんの歌碑・記念碑があり、信夫山の奥深さを感じることができますよ。
その80 信夫山は恋の山(その2)
信夫山ほど恋の歌に詠まれた山はないでしょう。平安時代から、都人の「奥州みちのく」への憧れは大変なもので、たくさんの歌が残されています。
中でも「信夫山」は人気の的で「しのぶ」という響きが、忍ぶ(人目を忍ぶ)、偲ぶ(思い慕う)、慕う(懐かしくおもう)、さらに、恋の哀しさや世の憂きことを忍ぶ(耐え忍ぶ)を連想して、恋心に思いを重ねたのでしょうね。
信夫山を詠んだ歌だけでも90首あります。
「しのぶ山 しのびてかよふ道もがな 人の心の奥を見るべく」(伊勢物語15段)=「あなたの元へ人目を忍んで行ける道があったらなあ、あなたが心の奥で私をどう思っているのか、知りたいのだ」という意味になるのでしょう。この場合の「しのぶ山」は“しのぶ恋”の形容詞のように詠まれていますね。
「いかにせむ 信夫の山を超えかねて 帰る道にはまた惑ひける」(慈円)=「あなたを偲ぶ恋心を打ち明けきれず、どうしたものか、ひとり帰り道にも、まだ迷っているのです」と、少々情けない男心ですが、本当に好きな女性にはなかなか打ち明ける勇気が出なくて、男は惑うのです。
でも、そんな歌をもらったら、思わず許してしまうかも知れませんね。続く…。