福島市の中心部にある信夫山の情報サイト

その61 信夫山と町の豪商たち

信夫山の黒沼神社には、板倉のお殿様が、代々絵馬を奉納していましたが、一方で、町衆・村衆も見事な絵馬額(龍図・花鳥図)を奉納しています。
これは、常時飾られているので、扉が開いているときには、自由に見ることができます。
絵馬額は、幕末の安政2年(1855年)に奉納されていますが、町衆とは福島町の豪商といわれた人たちで、当時の大商人は資産家になればなるほど、惜しみなくお金を拠出して、町の振興に尽くしました。

びっくりするのは、その見事な絵馬額を描いた金澤椿山(ちんざん)という絵師は、なんと奉納に名前を連ねている豪商の一人、金澤弥五兵衛その人でした。商人であると同時に、狩野派の絵師だったのですね。
今も代々続く名家の名前が多く並んでいますが、中でも長澤春吉(但馬屋)は、その子孫たちが信夫山に石灯篭・地蔵尊・御賓塔(共同納骨堂)など、数々の寄進をしています。
信夫山を現在の桜の名所にした「桜樹満株栽植記念碑」にも、そんな商家の方々が名前を連ねています。昔の人は、本当に偉かったですね。
ちなみに町衆の寄進は「御城下町々絵馬」とあり、村衆は「御領内村々絵馬」と書かれ、豊作を祈願したものでしょう。

その62 信夫山産の陶器 福嶋焼の話

みなさんは、幻の陶器といわれる「福嶋焼」の話を聞いたことがありますか?
真っ白な美しい肌合いの、絵付けの素晴らしい生活陶器でしたが、それはなんと、信夫山の白土山といわれる所から取れた白粘土を使って焼かれていました。
昔から、信夫郡の農家では、この白粘土を土蔵の白壁として使っていたそうですが、この白粘土が製陶に適していることが分かり、明治41年の民友新聞に分析記事が発表されました。

焼き縮みがなくて、白色の薄手の皿物に適していたため、明治44年に福島町の加賀屋が今の橘高校の北側に、「福島製陶所」を作ってたくさんの陶器を売り出しました。
絵付師は、会津本郷の窯元から技術者を招いて本格的だったそうです。
驚くのは、この瀬戸加賀屋の金澤忠右衛門が、あの信夫山黒沼神社の絵馬額を描いた絵師、金澤椿山の弟だったのです。
おかげで福嶋焼きは評判も高く、県内あちこちに販売したそうです。しかし残念なことに、信夫山の白土は量が少なく、やがて掘り尽くしてしまい、工場は閉鎖することになりました。
今は幻の陶器となっていますが、先日やっと金澤家の子孫のお宅で、貴重な白い陶器に出会うことができました。いつまでも残ってほしかった福嶋焼ですね。

その63 座禅岩と子守石の話

信夫山には不思議な伝説の岩があって、信夫山48石といわれています。
昔は厳しい参道をたどって、ようやく出合うことができた霊石でしたが、今は、例えば「座禅岩」も、すぐ近くの月山駐車場まで車で登れるので、容易に見ることができるようになりました。
信夫山西端の大絶景「烏ヶ崎」も、月山駐車場からだとわずか7~10分で行けます。

さて、その「座禅岩」ですが、駐車場の階段を下りるとすぐ、案内看板が目につきます。そこを入っていくと、見事な大岩が鎮座していて、ちょうど座禅を組める平らなところがあります。
なんと、そこは昔、弘法大師が座禅を組んで悟りを開いた、といわれる岩で、山伏信仰の盛んな時代、何千といわれる山伏僧が座禅を組んで修行をしたのだそうです。
信夫山のパワースポットの一つで、そこに登って座ってみると、たちまち頭がすーっと冴えてくるそうですよ。
昔、その周辺には、修行をした僧が一心不乱に経文を書いた「一字一経石」が数多くみられました。
また、その座禅岩のすぐ下に、「子守石」という岩が立っています。なんとその岩は、女人禁制であった羽山の掟を知らずに登ってきた子守が、神罰でたちまち岩にされてしまったというのですね。

その64 信夫山は優秀な金山

信夫山は、むかし優秀な金山だった、という話を聞いたことがある人は多いはずです。
実際にその通りで、鎌倉時代ごろから、福島で金鉱山として有名だったのが、信夫山金山、大森の城山、松川金山でした。
昔、奥州の金を都に運んで大もうけをした、金売り吉次という商人がいました。義経を平泉の藤原氏に逃がす手助けをしたと言われる人物で、当時の信夫山や城山の金を扱って稼いでいたそうです。

信夫山を探索してみると、あちこちに昔の金鉱跡がありますし、その周辺には昔のたぬき堀りの穴の跡も、たくさん残されています。たぬき掘りは、人が一人やっと入れるほどの穴を、金脈をたどりタガネで掘り進んだものだそうです。
一般に、金鉱山は鉱石1トンあたり、7グラムの金が含まれていれば採算が取れると言われていますが、信夫山の金は1トンあたり14グラムの金が含まれていたといいますから、大変良質な金鉱だった訳です。
本格的な採掘がはじまったのは昭和8年で、当時の大日鉱業が大規模な採掘をはじめました。
昭和10年代には、信夫山北側・早坂地帯のいたる所に金鉱石を掘り出したズリ山があり、選鉱場やら飯場があって、鉱夫や家族でにぎわい、山神の祭りには芝居小屋も立つほどだったそうです。

その65 今も残る金鉱跡

優秀な金鉱山だった信夫山ですが、なにしろ小さな山でしたから、やがて掘り尽くされてしまいました。
しかし、金鉱だった証拠に、今でもいくつかの坑道入口跡を見ることができます。
昭和30年代までは、金竜鉱とよばれる坑道入り口が有名で、青少年の冒険の基地にもなっていましたが、25年と36年に子どもが2人、行動の竪穴に落ちる事故があって、その後、ふさがれてしまいました。さらに、探訪取材ロケ隊も1人落ちたそうですよ。

面白いのは、その金竜鉱は信夫山を南から北に貫通していて、北口がぽっかり口を空けていることです。
信夫山の金鉱はいろいろな運命をたどり、終戦間際には西端にある金鉱跡を活用して、なんと、中島飛行機の戦闘機のエンジンを組み立てる地下工場(フ工場)がつくられることになり、大勢の挑戦人が強制労働に駆り出されました。当時、学生も動員されたので、工事に従事した記憶がある高齢者が、まだたくさんおられます。
そんな金鉱跡を、いつか活用できたらいいですね。

その66 文化センターと信夫山

今回は「とうほう・みんなの文化センター」(福島県文化センター)と信夫山のお話です。
昔、県文化センターのところは鳥目(とりのめ)湿地といって、信夫山ふもとの窪地でした。一部が沼沢地となった湿地で、モウセンゴケなどの食虫植物や水草植物が多かったそうです。
一帯には、清冷な清水が沸いていて、昭和2年には文化センターの場所に「丸共製糸場」という工場ができました。

その上にカニ沢という所があって、大蟹(ガニ)が住み、黒沼(ハローワークの向かいの噴水公園で昔は沼)の大蛇と戦い、はさみ殺したという伝説が残されています。
実は、信夫山への最古の正参道は、文化センターの東から登る道でした。昔、羽黒山参拝者は、霞町の常覚院という先達院で祈祷(きとう)を受け、祓(はらい)川で身を清めてから登ったそうです。大変でしたね。
旧参道の道筋ははっきりしませんが、東稜高校の校庭の上には、稚児石という信夫山48石やたんたら清水もあります。
また、産居(さんきょ)といわれるお産をする小屋もありました。
今、文化センターの後ろには所窪団地・信夫山墓地が整備され、湿原は無くなってしまいました。
こんな風に、信夫山はちょっと調べるだけであらゆる物語がでてきます。面白いですね。

その67 コラムを書いているのはこの人です

あけましておめでとうございます。今年が皆さまにとって素晴らしい年になりますように。
さて、「わらじいと行く信夫山散歩」のこのコラムも、67話を迎えることになりました。
平成27年8月22日号が第1話でしたから、今月でなんと17カ月も続いている長期連載コラムになっています。
さらに、平成27年9月19日号~翌年8月13日号の1年間は、毎月「信夫山散歩Special」として1ページの信夫山特集を組んで情報をお届けしてきました。

ちょっとコアな情報コラムでしたが、「信夫山にこんな話があるとは知らなかった」「信夫山の魅力と素晴らしさが初めて分かった」と、たくさんの人が楽しんでくださいました。やはり信夫山は「福島市民のシンボル」だったのですね。
そんなコラムを毎週書いているのは、通称信夫山博士の浦部博さんです。なにしろ、信夫山を研究して45年にもなるというのですからびっくり。信夫山ガイドマップ、伝説小冊子、映像DVDなど、数多くの情報発信を続け、信夫山ガイドセンターの誕生にも大きく関わって活動しています。
さらにFMポコでは、毎週月曜日(再放送水曜日)に、ふくしまボンガーズしなだマンと浦部さんの楽しい掛け合いで、信夫山コラムを放送しています。ぜひ聴いてみてください。

その68 御山千軒町とはなーに?

信夫山山頂から、福島市の北部全景が見られるのはご存知ですね。
第一展望台北側に「薬師の峰展望デッキ」、一周道路北側に「第三展望デッキ」があり、広大な眺めが楽しめます。
信夫山トンネルの北側からは国道13号線と新幹線がそれぞれにまっすぐ伸びていますが、ちょうどその交差する地点が「ヤマダ電機」の黄色の建物で、山からよく見えます。
実は、その「ヤマダ電機」のある一帯は、昔、福島町より大きな村落があって「御山千軒町」といわれていたそうです。

奈良時代から平安初期まで栄えており、今でも町中・中ノ町・中屋敷・古屋敷などの地名が残っています。泉・南沢又まで広がる地域で、昔は信夫山の北側が「福島の町」だったのですね。
なぜ、そんな町が消えてしまったのかというと、ある時、松川が大氾濫を起こしてすべてを押し流してしまったからだそうです。
そういえば、伊達政宗との松川合戦(1600年)のときには、松川は信夫山の南を流れていましたね。
平安以降、松川は何回か流れを変えています。古老によると、戦前、信夫山北部は広い水田地帯で、小さな泉川が松川と並行して流れており、そこにかかっていたのが「念仏橋」だそうです。
信夫山はさまざまなことを教えてくれますね。

その69 青葉山(信夫山の古名)と羽山の謎

信夫山は、西の烏ケ崎のある羽山と、中央の羽黒神社のある羽黒山と、東の熊野山と、三つの峰に分れていて「信夫三山」といわれています。
大昔は、山神であり水神・農耕神である奥山の「吾妻山」が信仰の本社で、信夫山はいわばその出店のような存在であった、と考えられています。他の地区でも吾妻山が見える里山の西端を、羽山(端山)と呼ぶことが多いのはこのためですね。
信夫山は、盆地の真ん中にある孤立丘ですから「大羽山」と呼ばれ、これが転じて「青葉山」(信夫山の古名)といわれるようになった、と考えてられています。

さて、そんな信仰の山でしたから、西端の峰は霊験あらたかな奥ノ院といわれ、特に烏ケ崎は眺望絶景で巨岩がるいるいと重なり、山伏たちの厳しい修験の場所となりました。後に西峰だけが「羽山」となりましたが、女人禁制の神聖な羽山には、戦前まで女性は近づけませんでした。
羽山には、月山神社と湯殿山神社が祀(まつ)られていますが、当時は岩倉(岩の寄り集まった所)そのものがご神体でしたから、神社そのものはごく質素になっています。
烏ケ崎の先端の護摩壇岩は、山伏が吾妻山遥拝を行った修験場で、吾妻小富士がちょうど目の高さに見えます
なにしろ羽山はすごい所なのですね。

その70 昔の暁まいりとは①

間もなく信夫山の「暁まいり」ですね。毎年2月10日に「大わらじの奉納」が行われるのは知っているけれど、暁まいりは行ったことがない、という人が多いのではないでしょうか。
実は、昭和30年代までは、暁まいりは福島市だけでなく信達平野全体の最大の祭りとしてにぎわっていたのでした。
古老は言います。「俺が若い頃までは本当にすごい祭りだったなあ。『裸まいり』も盛んで、男子はふんどしを締めこんで、腰にはし

め縄を巻いて、白鉢巻きに足袋とわらじ掛け。梵天(ぼんてん)を先頭にして雪の吾妻おろしの中を、必死に駆け登って羽黒山に参拝したもんだった。その当時は大わらじも複数で、村々の若い衆が、雪の中悪戦苦闘して御神坂(おみさか)を担ぎ上げたもんで、今のように楽な奉納ではなかったんだ」。
「参拝する人手も桁違いで、男女とも押し合いへしあいしながら、滑る雪道を手を握り合い、助け合って登ったから、縁結びの行事とも呼ばれるようになったんだわい。今では考えられねぐらい大規模だったぞ」。
戦後、意気消沈した人々を勇気づけようと、大わらじが復興したのですが、わらじが大きくなるに従い、熱狂的な祭りに。なんと7万人ともいわれる人が詰めかけ、臨時列車や臨時バスが増発されてきます。続く。