福島市の中心部にある信夫山の情報サイト

その51 信夫山のパワースポット②

信夫山の不思議なスポットの続きです。
さて、羽黒神社のすぐ下の参道に「弁慶の膝かぶ石」といわれる、ポコンと丸いへこみがある大石があります。信夫山にきた弁慶が膝をぶつけたら、岩がへこんだといわれ、昔から膝の痛みに悩む多くの人々が、この凹みに膝を当てにきたそう。試しに膝を当ててみてください。ぴったり収まりますよ!

弁慶の拝み石はもう一つ、信夫山の麓、県庁通りを突き当たった左に「弁慶の足跡石」があります。弁慶が釣り鐘を担いで登ったら、ベコンと岩がへこんで足跡が付いたといわれる大石です。昔は、巨大なものにすがって厄を払う、巨神信仰が盛んだったので、この大石も身体壮健、健脚の守りとして、あがめられたのだそうです。
第二展望台付近の「てんぐら岩」は、天狗の黄金が埋まっているといわれているパワースポットで、気の流れの強いところ。疲れた体、心の悩みなどが、たちまち爽やかに回復するそうですよ。
実はこれらの岩は「信夫山四十八石」といわれる伝説の霊石なのでした。
さすが、信夫山はすごいですね。

その52 信夫山の水ものがたり①

信夫山は、盆地の中の独立峰なので、あれだけ緑の山なのに水脈がありません。「水のことでは大変な苦労をしたものだ」と言う、御山部落の住人・加藤ヨシおばあさんにお話を伺いました。

●たったひとつの井戸
「今でこそ信夫山にも水道が上がったが、昔は想像もつかないくらい水は大切なものでした」。

「なにしろ、御山部落には竪井戸がたった1つしかなく、それを部落18戸が使っていたから大変。いったんこの井戸が涸(か)れたら死活問題で、夜中に水を汲(く)みにいくのも珍しくなかった。そこで、区長は井戸に鍵をかけて厳しく分け水をしたんだわね」。
「それでも足りないと、水汲み専用の大樽を馬の背に付けて、下のたんたら清水に水汲みに行った訳よ。当時は道も狭くて険しいから、降り登りは大変な重労働。だから水は金銭より大切に使われたもんだわ」。
「部落では、雨水を大切にためて使ったり、ため池の水を生活に使ったりしていた。珍しいのは、国内でもあまり例のない横井戸があったのよ」。
「風呂なんかは大贅沢(ぜいたく)で、水汲みは大仕事だったから幾晩も同じ湯をたてかえして入ったもんだった。トタン屋根は雨で楽できてうらやましがられたもんだ。洗濯は里に下りて、ガッチャンポンプの井戸で水借りしたのよ」。

その53 信夫山の水ものがたり②

水に困っていた信夫山に、水道が来ることになったのも大変なご苦労があったのです。加藤ヨシさんの話は続きます。
「ある時、そのたった一つの竪井戸が原因で、疫痢(えきり)?の流行(はやり)病いが蔓延したことがあったのよ。赤子のいる母親が亡くなって大騒ぎ。保健所の調べで、井戸水をくみ上げるツルベを汚い手で触ったのが原因だと分かり、総出で大掃除したわ」。

「そんな時、あの薬王寺の隣りに、電電公社の無線中継所ができるという話になった。作業員が50人も来るので、そこに水道が引かれることになったのよ」。
「そこで部落では絶好の機会だと、早速、水道利用組合を作って公社や市と交渉。協力金・補助金を出してもらって、羽黒神社まで水道を引いて配管をする計画を立てたの。なにしろ、莫大な費用が掛かる訳だから、みんなの負担金も大変なもんだったけれど、今までの水くみの苦労を考えると、本当にありがたい事業だったわね」。
そうして、御山部落の各戸に水道が引かれたのが昭和36年のことだといいます。加藤ヨシさんは、初めて水道の蛇口から水がほとばしった感激を、今でも鮮明に覚えているそうです。
だから、信夫山に住む人は、今でも水をとても大切にしていますね。

その54 信夫山の五つの登拝路

登拝路(とうはいろ)とは、神社や仏閣に参拝するために登る参道のことです。信夫山には、昔、南の祓川口本参道、東の岩谷口、北坂口、北七曲り坂、西の森合口と、五つの参道がありました。
信夫山は、山伏の山として有名です。山伏は修験者(しゅげんじゃ)といわれ、霊験を身につけ、五穀豊穣を祈念し、諸病悪行を祓(はら)う力があるといわれていました。

登拝路にはそれぞれ先達(せんだつ)といわれる院がありました。例えば南本参道の霞内には常覚院があり、信夫山に参拝するためには、まず祓川で身を清め、不動堂で無事を祈ってから登りました。
他の登拝路にもそれぞれ院があり、信夫山が栄えた鎌倉末期から江戸時代は、信夫山は威厳のある霊山だったのです。
古い南本参道は、福島県文化センターの東から羽黒山に登っていました。江戸時代になると、福島城(県庁)からまっすぐに信夫山に登る御山通り(県庁通り)が開かれ、新本参道となりました。
東岩谷口は、岩谷観音の東に参道入り口があり、北坂口は信夫山一周道路北に鳥居が立っています。七曲り坂口は、信夫山トンネルの北口(酒のあかい)から登ります。
西の森合口は、新幹線のガード下に登り口があり、養山大清水・24地蔵・33観音が並ぶ、興味深い史跡の道です。 (続く)

その55 信夫山48石の2つ

信夫山には48石と云われる、とても面白い形の岩があります。
伝説と信仰の岩で、一つ一つに物語があり、昔は人々にとても大切にされていました。今回は、現在の第2展望台の左下にある、(重箱岩)と(びょうぶ岩)のお話です。
なんとそこは、40年ぐらい前まで旧第2展望台でした。昔は物見台として使われていたといい、重箱岩の上に立つと、福島市の南部と東部がぐるりと見渡せました。
残念ながら立木が伸びてしまい、今は視界が狭まっています。

その重箱岩が乗っかっているのが、びょうぶ岩の巨大な岩体です。昔は本当に眺めのいいところで、現在の整備された展望台と、ほぼ同じ眺めを楽しむことができました。
びょうぶ岩は、ぐるりとひと周りできます。見上げてみると、まさに屏風(びょうぶ)のように、垂直に立ち上がっているその高さにびっくりします。
近くには、同じ48石の「てんぐら岩」「夫婦岩」もあります。詳しくは「信夫山ガイドセンター」でお尋ねください。

その56 六供七宮人の話1

第7話で、昔、信夫山に皇太子と皇后さまが逃げてきた(?)というお話をしました。
そこで驚くのは、「その皇太子と皇后につき従ってきた家臣の子孫たちが、今も信夫山に住んでいる」ということです。
信夫山の羽黒神社は、第29代欽明天皇の皇子(ヌナカフトノミコト)を祀(まつ)っており、麓の護国神社の右隣にある黒姫神社には、その母、石姫(イヒヒメ)皇后が祀られています。その由緒は黒姫神社の正面に、大きく掲げられていますね。

そして現在、信夫山の羽黒神社の下の部落にお住まいの人々の中には、77代もさかのぼれる古い家系図を持つお宅もあります。伝説によると、石姫伝説を裏付ける重要な役職を担う方々でした。
羽黒神社は昔、「羽黒大権現」といわれ、神仏混交の(神様と仏様両方を祀る)神社でした。この大権現を守り、祭事を取り仕切っていたのが、六供(ろっく)=六供僧といわれる社僧で、その下に神楽などを担当する宮人(ぐうじん)がいました。
旧参道御神坂(おみさか)を登ると、参道に面して六つの小宮が並んでいますが、それは六供の護持する羽黒大権現の摂社です。七宮人もそれぞれ大明神を守っていましたが、今は一つしか残っていません。
六供・七宮人は重く扱われ、一切除地=無税の扱いを受けていたそうです。 (続く)

その57 六供七宮人の話2

信夫山には、歴史を物語るように、現在も加藤家・小野家・菅野家ほか、六供(ろっく)直系の子孫が、誇り高くお住まいになっています。また七宮人(しちぐうじん)の曳地家・渡辺家ほかの子孫も多く暮らしています。
六供・七宮人は、護持する小宮ごとに院号と名前が残っていて、それぞれのお宮には特別のご利益があり、近年まで参拝者が熱心にお参りをしていたそうですよ。

・正八幡宮 = 八幡院   渡辺蔵人(くらんど)
・牛頭天王宮 = ??園院(??は、ころもへんに氏)  小野掃部(かもん)
・天王宮 = 山王院    菅野主計(しゅめ)
・三宝荒神 = 三宝院   加藤大学(だいがく)
・一ノ宮明神 = 一宮院  西坂内匠(ないし)
・天神宮 = 自在院    西坂隼人(はやと)

驚くのは、旧参道に面して加藤家の石碑がありますが、その表には「羽黒山六供社人 元山伏 加藤藤右エ門大学邸」とあり、裏に「第七十七代 加藤伝」と彫られています。一代30年としてもすごい歴史ですね。
さて、六供・七宮人の話は史実ですが、実は、皇太子と皇后さまが信夫山に逃げてきたという石姫伝説の方は、江戸中期の堀田公(板倉公の前)によって整備されたという説があり、正式な歴史では、あくまで伝説として扱われています。
でも、伝説だからこそ、信夫山は面白いのです。

その58 信夫山の念仏橋

今日は、不思議な念仏橋のお話です。
旧参道御神坂(おみさか)には、六供・七宮人(ろっく・しちぐうじん)の小宮が並び、石姫伝説に関わる古い家柄の方々が、今も暮らしています。
その御神坂を息を切らしながら登ると、ぱっと視界が開け、羽黒神社の赤鳥居が見えてきます。
その平地の左に、不思議な石碑が立っていて、なんと昔は橋として使われていたそうです。しかも渡る際に、お念仏を唱えていたというのですね。

その石碑は、文永の板碑といい、中央上に大日如来の種子が刻まれ、下に
右志者為非母之時
種子 文永十年 孝子敬白
菩提門造立之如件
と彫られています。
つまり、亡くなった母のために建てた供養碑で、孝子というのは本人のことでしょう。文永十年は、1273年ですから、今から745年も前(鎌倉時代)のものです。
昔は甘粕(第二展望台の近く)にありましたが、なぜか、泉川(信夫山トンネルの北側二つ目交差点)の橋として利用されたそうです。そんな恐れ多い橋ですから、渡るときにはお念仏を唱えたのでしょうね。
脇に副碑があり、詳しい訳が書いてあります。
このように、旧参道を少し登るだけで、信夫山の不思議を感じることができます。ぜひ探索してみませんか。

その59 民話を聞く会ご案内

さて、信夫山ほど面白い話が詰まっている里山は、全国を見渡してもそうないでしょう。
ご存知の「大きな湖に信夫山がぽっかり浮かんでいた」という話に始まり、なんとその昔、皇太子さまと皇后さまが、信夫山に逃げてきた話(黒沼神社由来)、信夫の三狐、信夫山48石伝説、御山ゆずの話など、数え上げたら限(きり)がないぐらいの伝説や不思議話があります。

信夫山ガイドセンターは、そんな信夫山の魅力を、展望・歴史・伝説・自然環境など多角的に紹介している施設です。11月19日(土)には、語り部・門間クラさんによる信夫山の民話を聞く会を開催しますので、ぜひお出掛けください。

その60 板倉の殿様の絵馬

今回は、福島板倉藩のお殿様が代々、信夫山黒沼神社に奉納していた「絵馬」のお話です。
板倉家は、江戸中期(元禄時代)の板倉重寬を初代として、幕末の板倉勝達まで、なんと12代167年も続いた優秀な小藩でした。
その歴代の板倉藩主の絵馬7枚が、昨年初めて黒沼神社で公開されました。いずれも一流の絵師によって描かれた素晴らしい出来栄えで、当時の文化水準の高さを示しています(福島市の有形民俗文化財に指定)。
絵馬とは、元々は神様への神馬奉納に由来するもの。室町時代から画題が多様化して、さまざまな吉祥画が描かれ、豊作や経済繁栄などの願いが込められて奉納されるようになったそうです。

お殿様の奉納した絵馬にも、競べ馬図・唐獅子図・旭日双鶴・鯉に乗る仙人・松に梅花図などさまざまな図柄が描かれています。
実は、この展示は「まちのおかみさん会」の尽力で実現したものです。
福島市のふれあい歴史館に保管されて眠っていたものを、ぜひ、信夫山の豊かさの一つとして紹介したいと、おもてなしの野点(のだて)も組み合わせて、女性らしい展示会になったのですね。
さて、このお話は続きがあって、その絵馬と同時に町衆・村衆の奉納した大絵馬も公開されたのですが、それが…(続く)。