その21 わらじいの秘密
信夫山の「暁まいり」が間もなく始まりますね。そこで、今日は「わらじい」の秘密をご紹介。
わらじいの年齢は300歳以上といわれています。大わらじから生まれたので、身体はワラでできているとか。本名は羽黒護左衛門藁助(はぐろごんざえもんわらすけ)という立派な名前です。なにしろ、足腰の弱い人や恋人同士を見ると放っておけなくなる性格で「わらじから生まれたから、健脚と身体壮健にはご利益抜群じゃ」と本人も保証済み。さらに縁結びも得意で、「二人で『暁まいり』に参加すればたちまち良縁が結ばれるはずじゃ!」と公言しています。パセオ通りの「信夫山散歩」にはお守りもありますよ。
さて、歴史をちょっと振り返ってみましょう。信夫山に大わらじが奉納されるようになったのは、約300年前といわれ、初めは仁王様の強い力に頼って病や邪を払ってもらおうと大きなわらじを奉納したのが始まりです。当時は、東北を代表する祭りの一つで、最盛期は7万人を超す参拝者があふれ、雪の凍路を登っていきました。戦後でも特別列車やバスが運行され、街は商店や映画館が24時間通しでにぎわったそうです。そこで、男女が出会い、縁結びの祭りといわれるようになったのですね。現在は、御山敬神会が受け継ぎ、長さ12㍍・重さ2㌧という、まさに日本一の大わらじを奉納しています。
その22 松川は信夫山の南を流れていた!?
今日は、松川の流れと信夫山についてお話ししましょう。
現在、信夫山の北を流れる松川。実は以前は信夫山の南を流れていました。慶長5年(1600年)、伊達政宗が信夫山の護国神社前に本陣を構え上杉方と激しい戦いを繰り広げ、福島勢が伊達政宗を打ち負かしたという「松川合戦」の話はご存知の方も多いのでは。その当時、松川は信夫山の南を流れていて、現在の一盃森・福島テレビの南側から競馬場の北端を通って阿武隈川に注いでいました。では、いつから信夫山の北を流れるようになったのでしょう?
現在の流れになったのは、寛永14年(1637年)の大洪水によるものです。堤防が無く、両岸に松が植えてあるだけだった松川は大きな被害を受けました。それによって、現在の南沢又の福島刑務所の上辺りで信夫山の北側に流れが変わってしまったのです。実際の松川を見ても、本当に信夫山の南を流れていたのか…なかなか実感が湧きません。
この季節、松川の川寒橋付近にはたくさんの白鳥が訪れていて、優雅な姿で私達を出迎えてくれています。川の流れと白鳥に癒されながら信夫山を見上げてみると、今までとは少し違った視点で楽しめるかもしれませんね。
その23 信夫山の雪室(ゆきむろ)の話
今回は、信夫山の雪室で氷を作っていたというお話です。
雪室とは、大きな雪の貯蔵所のこと。福島藩主・板倉公の時代から明治にかけて、信夫山の護国神社の上の山の斜面にありました。
冬の大寒大雪の頃、人足が集められて、雪室に大量の雪をかき集めました。その上にわら屋根をかけて、夏までその雪を保管したのです。すると雪の重みと冷たさで、中が氷になったのでした。
板倉公は城内で7月に夏越しの祭りを行っていたそうですが、その時に城下の役人や、町年寄り、御用達の商人が招かれて、この雪氷をかけた素麺が振舞われるのが習わしでした。
板倉藩の始まりは元禄の終わりごろ(1702年)で、夏越しの祭りは安政(1855年)との記録があります。明治の始まりが1867年ですから最近の話ですね。
現在も護国神社の上の車道を登ったところに、巨大な四角いくぼみがあります。後ろは崖で、今はうっそうと草木が茂っていますが、何百㌧もの雪が貯(た)められそうな場所です。ここに確かに雪室が存在したのでしょう。
エコロジーが重視されている昨今、電気を使わない天然冷蔵庫としての雪室は現代でも見直され、利用されている地域もあるそうです。まさに、先人の知恵ですね。
その24 仙台の「青葉城」は信夫山の古名!?
今回は、“私たちが慣れ親しんでいる「信夫山」が、昔は「青葉山」といわれていた?”というお話です。
松川合戦の話を前回紹介しましたが、慶長5年(1600年)、伊達政宗は護国神社の信夫山公園(愛宕山)に本陣を構え、当時信夫山の南側を流れていた松川を挟み、福島城代の本庄繁長と向かい合いました。
最終的には福島勢が伊達政宗を打ち負かしましたが、その後、仙台に帰った伊達政宗は城作りに着手し、一緒に戦い落ち延びた信夫山の別当寂光寺慶印に土地を与え、青葉山寂光寺を再建させました。仙台城の雅号を「青葉城」と名付けたのはその恩義のためです。
実は「青葉山」とは信夫山の古名で、仙台に「残月台本荒萩」という本がありますが、青葉城は福島の青葉山の名を移したものと明記されています。同書には、「奥州伊達郡瀬上宿付近の、伊香良目という在家の東南に青葉山と言う山有、山一通松の木にて一年中青葉を見るに以って青葉山といふ、この青葉山を言移したる説なるべし」と書かれています。
現在、仙台城展望台の解説板には信夫山のことは一言も記載されていません。寂光寺が再建された所が仙台の青葉城ともいわれ、松川合戦記録も単に兵を引く、とだけ記されています。よほど悔しかったのでしょうね。
その25 だれが植えた?信夫山の桜
信夫山と言えば、市民みんなに親しまれている桜の名所でもあります。
信夫山公園は、東京の上野公園と同じ時期、明治7年(1874年)に政府の認定する公園になりました。
その後、明治32年(1899年)に、当時の町長であった鐸木(すずき)三郎兵衛たちが発起人となり、公園にソメイヨシノやヒガンザクラ約1万本を植樹し、現在の桜の名所が生まれたのです。
大日堂広場の南石段の傍らに「桜樹満株栽植記念碑」があります。その碑には、香雲満山にたなびき、麗景人を招く、云々(うんぬん)とあります。
100年後の人々の楽しみを考えた、先人の思いに感慨深いものがありますね。
ちなみに、寄進をされた方々の名前がずらりと並んでいますが、粉又さん、但馬屋さん、金澤さんといった、昔の人ならだれもが知っている町の商家さんの名前が多く見つけられます。
多くの人々に、信夫山を愛して欲しい-。そんな気持ちが一本一本に込められていたことを感じながら、今年はもっと「桜」の気持ちになって眺めてみましょう。
一方、残念ながら桜の寿命が尽きようとしています。特にソメイヨシノは70年を過ぎると老木になり朽ちてくるそうで、青年会議所や有志の方々が懸命に植樹に努力されています。みんなで活動を応援していきましょう。
その26 信夫山の記念碑
信夫山には歴史を刻むたくさんの記念碑があります。今回はそれを紹介してみましょう。
例えば、吾妻山殉難記念碑(明治32年建立)。明治26年6月7日、吾妻山が噴火した際に観測調査に当たっていた三浦宗次郎技師・西山惣吉技師が巻き込まれ、亡くなったことの碑です。日本の火山噴火観測史上初の殉死だったそうです。
大島要三翁銅像(昭和12年建立)。東北本線鉄道工事をはじめとする大工事に功績があり、福島商工会議所初代会頭や衆議院議員も努めていた人物です。福島競馬場を招へいした人物としても有名で、競馬場を見下ろす角度で銅像が立っています。
養兎記念碑(昭和38年)。福島でウサギを飼育し、毛皮を生産した記念碑です。最盛期は100万枚に及ぶ毛皮を産出し、その後アンゴラウサギの飼育で年1万ポンドを生産。軍のコートに利用されたそうです。
佐藤善一郎翁胸像(昭和40年建立)。昭和32年県知事就任から、福島の発展に尽力された功績を称え、建立されました。
警察犬慰霊碑は、シェパードの像と共に、警察捜査に従事した功績がたたえられており、裏面には19頭の名前が彫られています。他にも、電気事業殉職者慰霊碑、方位標示石、石灯篭、信夫山公園の碑等、たくさんの碑が点在しています。
いろいろな歴史に触れることができるのも、信夫山の魅力の一つです。
その27 信夫山の歌碑たち
前回は記念碑でしたが、今回は、信夫山は和歌・短歌・俳句文化の中心地だった、というお話です。
平安の昔から、信夫山は歌枕として数多くの和歌に詠まれていますが、江戸時代や明治時代にもすぐれた俳人・歌人が信夫山に集まりました。
江戸末期、「名月の碑」で有名な御山村名主の西坂珠屑(しゅせつ)は、板倉公にも信仰があり、薬王寺に俳壇をつくって多くの俳人を輩出しました。明治41年には東北六県の「奥羽俳人大会」が薬王寺で開催されたほどです。
信夫山公園には、有名な俳人・歌人の歌碑がたくさんありますのでいくつかご紹介しましょう。
原袋蜘(たいち)の句碑「永き日も 遊びたらずに 暮れにけり」。懐かしい思いがこもる句ですね。
杉聴雨(ちょうう)の句碑「月や雲 世の憂きことも 信夫山」は、忍ぶをかけています。
難しい歌では、六種園望遐(りくしゅえんもちとう)の歌碑が冬を詠める旋頭歌(せんとうか)として知られています。旋頭歌と言うのは和歌の一形式ですが、「五七七五七七」の六句で詠み上げ、万葉集にも数首収められています。
他にも、紹介しきれない歌碑がしのぶ山にはまだまだたくさんあります。
知れば知るほど、山の中に魅力が詰まっているのが、私たちを毎日見守ってくれている「信夫山」なのですね。
その28 霊華のかんざし その1
今回は、門間クラさんが書いた「信夫山ざっとむかし」から、霊華のかんざしをご紹介します。
信夫山には神様がいて、父神様には2人の美しい娘がおりました。
この2人のお姫様は性格が正反対で、姉の信夫は優しくおっとりとしており、妹の出羽は頭が良く少し意地悪な性格だったそうです。
例えば、2人で野山を散歩していると、美しい花を見て、信夫は採りたいけれどかわいそうかなとためらいますが、出羽はさっと採ってすぐその辺にポイと投げ捨ててしまうのです。
ユズ畑を歩いているときは、朝日に輝くユズを見て、信夫が1つもらってもいいかと迷っていると、出羽がわざと枝をゆすって、肉厚のユズを採ってしまうのでした。
父神様はその2人の様子を見ながら、どちらに神の位を譲るか悩んだのですが、やはり姉の信夫に神の位を譲ることを決めました。
跡目を譲る時には、「神のみ印」である霊華のかんざしを渡すことが決められており、それを受け取った信夫は、うれしくて、胸にそれを抱いたまま昼寝をしてしまいました。
しかし、出羽がそれを奪ってしまったのです。出羽はそのかんざしを抱え、出羽の国に行き御山を開ました。出羽の人々がたくさん信者になったそうです。
(続く)
その29 霊華のかんざし その2
姉の信夫のかんざしを奪い、出羽に御山を開いた妹について、父神様は信夫にこう告げました。
「この信夫山が一番早く開けた威厳のある山であり、気持ちに穢(けが)れのある者、罪ある者の参拝は許さない。だが、奥の出羽山は悪いことをした者でも一度は許すから、お参りしても良い」。
信夫は心底それをうれしく思い、「私が守る信夫山は、品格のある人がお参りに来てくれる。この山をしっかり守らないと」と心に決めたのでした。
信夫の元には参拝客は少なくとも、熱心な信者が多く集まり、信夫は一人一人に優しい言葉をかけ、温かい心で接しました
すると「出羽よりも信夫の方がご利益があるそうだぞ」と噂(うわさ)が広まっていきました。
中には「オレは悪いことをしたけれど、黙って参拝すれば誰にも分かるまい」と善人にまざって参拝する悪人もおりました。しかし神様はお見通しで、そのような参拝をする罪人は、いつの間にか神隠しにあってしまったそうです。
そして、信夫の人格も手伝ってか、信者もどんどん増えていき、父神様は、姉の信夫に継がせたことは間違いではなかったと、胸をなで下されたそうです。
山形の出羽三山は、それはそれは立派な御山ですが、信夫山は、それよりさらに古かった、という伝説です。びっくり!
その30 足尾さまとわらじ
今回も門間クラさんの「信夫山ざっとむかし」から足尾神社のお話です。
江戸時代の後期、信夫山には、狩野派の絵師で西坂楳山(ばいざん)と名乗るおじいさんがおり、周りからとても尊敬されていました。
当時は、貧しい農家が多く、農民たちは疲れで足腰の痛みに悩んでいましたが、休む暇がありませんでした。
そんな折、三重県の伊勢参りの話が持ち上がり、楳山も含め、5~6人の一行で数カ月かけて歩いて旅をしました。何とか無事、参拝が済んだのですが、楳山は、足の痛みで起き上がることができなくなり、皆を先に信夫山に帰しました。
そんな夜、白い着物を着て、つえをついた白髪の老人が夢枕に立ち、「この近くに『足尾様』と呼ばれる足の神様が居るのでお参りをするがよい」と言ったそうです。夢のことが気になって夜中に起きて探してみると、そこに足尾神社がありました。お参りをしたところ、不思議に足の痛みは取れてしまいました。
神様に、お礼を言った楳山は、痛みに苦しむ信夫山の人にも伝えたいと、お札を持って帰り、信夫山羽黒神社の脇に、足尾様の小宮を建て、祀(まつ)ったのでした。
それからというもの、足腰が痛い人がお参りをすると痛みが取れると評判を呼び、それでお礼にワラジを奉納するようになったのだそうです。