その44 羽黒神社のお話し
今回は、信夫山山頂の羽黒神社のお話です。大わらじが奉納されている神社ですから、少し勉強をしておきましょう。
さて、羽黒神社は昔、「羽黒大権現」といって神仏混淆(しんぶつこんこう)=つまり、神様と仏様を一緒に祀(まつ)った神社でした。しかし、日本は神国であるとして、明治2年の神仏分離令により、神社と定められ、立派な仁王門が取り払われてしまったのです。
羽黒神社の始まりは、よく分かっていません。
聖徳太子のいた推古天皇の時代“羽黒大権現みちのくに現れる”(628年)とあり、天安時代、慈覚大師が古刹(さつ)「薬王寺」を開く(857年)以前には、もう山頂にあったわけですね。
明治11年の「福島県神社明細帳」では、ご祭神は沼中倉太玉敷命(ぬなかくらふとたましきのみこと)、つまり30代敏達天皇ということになっていますから、黒沼神社由緒の石姫皇后の息子、ということになります
それにしても、昔の羽黒神社は立派な大社殿でした。高さは15メートルもあり、総ヒノキ造り、東西北には、ヒノキの一枚板に見事な彫刻が施されていました。保原の長谷川雲橋・雲谷親子が彫ったものです。
雄大素朴な神社でしたが、惜しくも昭和51年に焼け落ちてしまい、朱色のコンクリートづくりになっています。
その45 羽黒神社の結界の謎
「羽黒神社」のお話をもう少し続けましょう。なにしろ、古い古い神社ですから、いろいろ謎が多いのです。
大わらじを見に行った人は多いと思いますが、旧参道の最後の階段を登ると岩盤がむき出しになった険しい坂道になります。そこからが羽黒神社の結界といわれる聖なる領域になるのです。
昔は、階段の右手に寂光寺という山伏の総本山がありました。
岩坂には、昔、仁王門が有ったのですが、まず注連掛(しめかけ)岩が立ちふさがります。「参詣の人この石を踏まば必ず災いあり」と怖れられる岩で、さらにその上には仁王岩という二本の角を持つ岩盤がありました。
「昭和初めまではしめ縄が掛けてあったが、わらじ奉納が大きくなってから邪魔になり、戦後にはついにダイナマイトで破壊されちまった」と古老のお話です。
ようやく仁王門をくぐると、また岩塊があります。そこには義経の馬の足跡石、弁慶の膝かぶ石、大神宮石塔、西坂珠屑(しゅせつ)の名月の碑がありますが、それは現在も残っています。
面白いのは、膝かぶ石の上に風穴という岩穴があって、つねに微風が出ていたというのです。羽黒山のオシミモノといわれる地下の黄金から吹き上げる嵐といわれますが、今は塞がれているのか見つかりません。残念。
その46 女性に厳しい信夫山
信夫山は「神の山」ですから、昔は厳しい戒律がありました。まず、羽黒山の氏子は四足(豚・牛等)・卵は、穢(けが)れものとして食べられませんでした。ただしウサギだけは、四足でも鳥として、何羽と数えるから食べて良かったそうです。
百姓(農業)をするときには、人も馬も鳥居をくぐれないので、鳥居の脇の「百姓道」(馬道)を通ります。今でも、御神坂(おみさか)の赤鳥居のわきには「百姓道」が残っていますね。
女性には一層厳しく、部落ではお産ができなかったり、死忌(いみ)、産忌、血忌があったり、羽黒山に参拝に行くにも正参道ではなく女坂といわれる脇道をたどりました。
ところが、そこにも怖い妖怪が出たのです。女坂のユズ畑の外れに「小豆とぎ石」という祟(たた)り石と、ナカンジョの池という暗い小さな池があります。夕方になるとそこに不気味な老婆が現れ、「小豆とぎましょか、それとも人とって喰(く)いましょか、ザックザック」と、何かつぶやいていました。そのため、暗くなったら女性は決して近づかなかったそうです。
それから、西の羽山は御山の奥ノ院なので、女性禁断です。知らないで登ってきた子守の娘は、たちまち石にされてしまったそうで、「子守石」が今も残っています。なにしろ女性には厳しい信夫山だったのです。
その47 宮沢賢治と信夫山の歌
宮沢賢治といえば、「雨ニモマケズ」で有名な詩人であり、「セロ弾きのゴーシュ」「銀河鉄道の夜」などの童話作家として知られています。岩手の農民作家と自称して、「風の又三郎」などの話を独特の土地のなまりで書いていますね。
一方、すごい科学者で生物、鉱物に精通し岩手の花巻農学校で多くの農学生を育てました。熱心な法華経信者でもあり、とにかく、とても謎めいた人なのです。
その宮沢賢治が、一度だけ福島を訪れたことがあります。大正5年、当時、東京との往復で、福島を通過することが多く、その途中で、福島に下車したものと思われます。阿武隈川に立ち寄り、歌を詠みました。
「ただしばし 群れとはなれて 阿武隈の 岸にきたれば こほろぎなけり」の案内板が御倉邸にあります
信夫山についても一首詠まれていて、「信夫山はなれて行ける機鑵車(きかんしゃ)の 湯気のなかにて うちゆらぐかな」とうたっています。
当時は蒸気機関車だったので、頻繁に水の補給が必要でした。その湯気のなかに、信夫山がゆらゆらと揺らぎながら離れていく…という、ちょっと淋しい心境の歌でしょうか、信夫山は東京の行き帰りに、気にかかる里山だったのでしょう。
惜しくも、昭和8年37歳で亡くなりました。
その48 信夫山コラム2年目に突入!
信夫山について、いろいろな情報をお届けしているこのコラムも48話で丸1年になりました。また、月1回の信夫山特集全ページも、第12回で完結します。
おかげで信夫山に関心が集まり「こんな面白い話がたくさんあることを、知らなかった」という声が多く、信夫山コラムは2年目に突入することになりました!
さらに、8月からはFMポコと連携して、毎週月曜日午後4時10分から、信夫山コラムのお話をお届けします。
さて、この1年を振り返ると、信夫山がいかに豊かな自然・歴史・文化・暮らしなど、多彩な資産を持っているかが分かりました。
そしてこれからの信夫山を考えるとき、まずは、かつて福島市民にとって信夫山とはどんな存在であったのか? を理解してみることが大切だと気付きました。
では現在、人々にとって信夫山はどんな存在でしょう。考えてみる必要がありそうですね。これからは、信夫山を豊かに活用することが、街を元気にし、みんなの心を豊かにしていくでしょう。
花見山に次ぐ、観光スポットとして信夫山を全国にアピールすれば、街中の回遊も増加。スカイラインや、温泉、果物と連携した観光ネットワークも見えてきます。
信夫山はすごい可能性も秘めた山なのですね。
その49 信夫山の全まつり
信夫山のお祭りというと、わらじ奉納の「暁まいり」以外は知らない人がほとんどでしょう。
ところが一昔前までは、信夫山にたくさんのお祭りがあったのです。
夏になると、まず7月は盛大に「夏まつり」が行われました。この時は、信夫山の上下の氏子が全員で「御神坂(おみさか)掃除」といって、南北西の旧参道を清掃しました。赤鳥居には大幟(のぼり)が立てられ、頂上の羽黒神社は、大したにぎわいになったそうです。
8月には「八朔(はっさく)の祭り」があり、これは特に福島一帯の商人が、もれなく参拝に集まりました。商売繁盛に特別ご利益のある祭りだったのですね。
10月には「秋季例大祭」があって、これは市民みんなが祝う、五穀豊穣の感謝祭でした。明治時代に新しく制定されたものだそうです。
年が明けると、まずは「元朝まいり」です。昔は、大晦日(みそか)の宵から元日にかけて、福島全域から人々が参拝に集まりました。そして新年の朝、みんなで山頂からありがたい初日の出を拝んで、一年の幸せを祈願したのだそうです。
ご存じ2月の「暁まいり」は今回省いて、最後は旧3月の「春祭り」もありました。天下泰平と五穀豊穣・万民豊楽の大祈願祭だったそうです。
やはり、信夫山は大した山だったのですねー。
その50 信夫山のパワースポット①
不思議な伝説や、謎に満たされている信夫山。となると、当然、パワースポットや強烈なマイナスイオンが流れているスポットが存在します。
昔から、神社のあるところは不思議と霊気が強く、お参りをすると何か心身がすがすがしくなることは、皆さんも経験をしていると思います。
実は、信夫山は、山全体が、そんなパワーに満ちた山なのです。
信夫山の西端「烏が崎」は、誰もが知っている絶景の展望デッキです。不思議なことに、ここで親指と人差し指で輪をつくると、強引に引っぱっても外れないとか。信夫山にデートに出掛けたときに、彼に輪をつくってもらい、引っ張って外れなければ、2人は結ばれるかも!
烏が崎に登る手前の月山駐車場の下に「空海の座禅石」があります。昔、弘法大師(空海)が座禅を組んだ、という伝説がある大岩。その石に登って座禅を組むと、不思議に頭が冴え、すーっとストレスが消えていくようです。
羽黒神社の大わらじの右奥には、上部に円相が刻まれた石碑があります。この丸い円の中央に頭を当てると、たちまち頭痛が治るといわれています。円相は大日如来を表し、古くから多くの人の悩みを取り除いてきたそう。不思議ですね。
続きは次号に掲載します。
その51 信夫山のパワースポット②
信夫山の不思議なスポットの続きです。
さて、羽黒神社のすぐ下の参道に「弁慶の膝かぶ石」といわれる、ポコンと丸いへこみがある大石があります。信夫山にきた弁慶が膝をぶつけたら、岩がへこんだといわれ、昔から膝の痛みに悩む多くの人々が、この凹みに膝を当てにきたそう。試しに膝を当ててみてください。ぴったり収まりますよ!
弁慶の拝み石はもう一つ、信夫山の麓、県庁通りを突き当たった左に「弁慶の足跡石」があります。弁慶が釣り鐘を担いで登ったら、ベコンと岩がへこんで足跡が付いたといわれる大石です。昔は、巨大なものにすがって厄を払う、巨神信仰が盛んだったので、この大石も身体壮健、健脚の守りとして、あがめられたのだそうです。
第二展望台付近の「てんぐら岩」は、天狗の黄金が埋まっているといわれているパワースポットで、気の流れの強いところ。疲れた体、心の悩みなどが、たちまち爽やかに回復するそうですよ。
実はこれらの岩は「信夫山四十八石」といわれる伝説の霊石なのでした。
さすが、信夫山はすごいですね。
その52 信夫山の水ものがたり①
信夫山は、盆地の中の独立峰なので、あれだけ緑の山なのに水脈がありません。「水のことでは大変な苦労をしたものだ」と言う、御山部落の住人・加藤ヨシおばあさんにお話を伺いました。
●たったひとつの井戸
「今でこそ信夫山にも水道が上がったが、昔は想像もつかないくらい水は大切なものでした」。
「なにしろ、御山部落には竪井戸がたった1つしかなく、それを部落18戸が使っていたから大変。いったんこの井戸が涸(か)れたら死活問題で、夜中に水を汲(く)みにいくのも珍しくなかった。そこで、区長は井戸に鍵をかけて厳しく分け水をしたんだわね」。
「それでも足りないと、水汲み専用の大樽を馬の背に付けて、下のたんたら清水に水汲みに行った訳よ。当時は道も狭くて険しいから、降り登りは大変な重労働。だから水は金銭より大切に使われたもんだわ」。
「部落では、雨水を大切にためて使ったり、ため池の水を生活に使ったりしていた。珍しいのは、国内でもあまり例のない横井戸があったのよ」。
「風呂なんかは大贅沢(ぜいたく)で、水汲みは大仕事だったから幾晩も同じ湯をたてかえして入ったもんだった。トタン屋根は雨で楽できてうらやましがられたもんだ。洗濯は里に下りて、ガッチャンポンプの井戸で水借りしたのよ」。
その53 信夫山の水ものがたり②
水に困っていた信夫山に、水道が来ることになったのも大変なご苦労があったのです。加藤ヨシさんの話は続きます。
「ある時、そのたった一つの竪井戸が原因で、疫痢(えきり)?の流行(はやり)病いが蔓延したことがあったのよ。赤子のいる母親が亡くなって大騒ぎ。保健所の調べで、井戸水をくみ上げるツルベを汚い手で触ったのが原因だと分かり、総出で大掃除したわ」。
「そんな時、あの薬王寺の隣りに、電電公社の無線中継所ができるという話になった。作業員が50人も来るので、そこに水道が引かれることになったのよ」。
「そこで部落では絶好の機会だと、早速、水道利用組合を作って公社や市と交渉。協力金・補助金を出してもらって、羽黒神社まで水道を引いて配管をする計画を立てたの。なにしろ、莫大な費用が掛かる訳だから、みんなの負担金も大変なもんだったけれど、今までの水くみの苦労を考えると、本当にありがたい事業だったわね」。
そうして、御山部落の各戸に水道が引かれたのが昭和36年のことだといいます。加藤ヨシさんは、初めて水道の蛇口から水がほとばしった感激を、今でも鮮明に覚えているそうです。
だから、信夫山に住む人は、今でも水をとても大切にしていますね。