福島市の中心部にある信夫山の情報サイト

その14 信夫山はだれがつくった?

今回は、信夫山が誰がつくったか、という子供が感心する伝説です。
昔々、どこからか大徳坊と呼ばれる大男がやってきました。大徳坊はたんがら(背負い籠)に三背ほど山土をいれて背負って来たといいます。そして、はじめに土をあけたところが「羽黒山」です。つぎに土をあけたのが「熊野山」で、三つ目に土をあけたのが「羽山」になりました。

「羽黒山」は、大わらじと羽黒神社が祀(まつ)られている信夫山の中心ですし、「熊野山」は金華山ともいわれ村人の憩いの場でした。「羽山」はもちろん鴉が崎がある所ですね。
そして、底を見ると土くれが少し残っていたので、ぽんと空けたのがあの一盃森です。「わあ、そうだったの?」と子どもは目を輝かせます。
話はまだ続いていて、腹がへったので昼飯にしようと飯曲輪(まげわっぱ)を開いてみたら、飯の間に小石が混ざっていたので、箸でつまんで投げたのが石が森だといいます。石が森とは現在の阿武隈急行の卸町駅の脇にある巨岩の並ぶ小山です。一度は子どもと見に行ってみましょう。伝説の信夫の三狐の一匹「鴨左衛門」の巣穴があったところに、今は立派な朱色のお稲荷様が祀られています。
こんな風に、信夫山にはたくさんの伝説が残されています。森合の一盃森も登ってみましょう。

その15 信夫山の二匹の妖怪

今回は、信夫山の主(あるじ)といわれた、二匹の妖怪の伝説を紹介しましょう。
信夫山トンネルの北に、「酒のあかい」というお店があります。その脇に「七曲り坂登り口」という看板がありますが、その七曲り坂は飯坂の佐藤庄司が、わざわざ切り開いたといわれる急坂です。
昔々、その七曲り坂には巨大なムカデが住んでいたのでした。そのムカデは、せっかく村人が育てた作物を食い荒らしたり、ときには人を襲ったりと、信夫山の主を名乗り悪さを繰り返していたのです。

一方、信夫山の南の、現在の噴水公園のところには、巨大なオロチが住んでいて、こちらも信夫山の主を名乗っていました。そこは昔は黒沼といわれた底なし池があったところで、あちこちに動物の骨や、白い人骨が転がっていたといいます。
ある日、この二匹が信夫山の西端の鴉が崎でばったりと出会いました。そして、たちまち激しい戦いとなり互いに傷つけあって、ついに二匹とも滅んでしまったのです。
江戸時代の後期、文久2年に山火事が起きて、その時にムカデの白骨が焼け残っていたのが発見されました。「五月十六日、羽山大権現宮前ヨリ野火発シ、ソノ節焼忙イタセシムカデ、白骨ニテ相残ル 信夫山麓森合村、願主清作」と書いた古文書がちゃんと残っています。
やっぱり信夫山はすごいですね。

その16 信夫山五つ石の話

信夫山といえば信仰の山。昔から信仰にまつわる伝説や伝承が数多く残されています。今回のお話は、信夫山48石といわれる不思議な形の岩の伝説です。昔は、信夫山を信仰する人は誰もが知っていて、敬ったり怖れたりして大切にしていた霊石でした。
48石は信夫山のあちこちにありましたが、例えば、皆さんご存知の第一展望台の上には、「五つ石」といわれる奇岩があります。江戸時代までは、西の羽山は女人禁制の厳しい修験の山だったのですが、そこに修行に来ていた若い山伏僧を追って、母親が一つ手前の寺山(第一展望台)に小屋を作って息子の帰りを待ちわびていました。

何年待っても、若い僧の修行はなかなか終わらなかったそうです。そのうちに母親は歳をとって、いつの間にか熊野のババと呼ばれるようになり、ついに待ちくたびれたババは力尽きて亡くなってしまったのです。
そのババは、5匹の白犬を飼ってかわいがっていたのですが、その犬たちはババが死ぬと、悲しくて七日七晩吠(ほ)え続け、とうとう石になってしまったそうです。
五つ石を後ろから見ると、羽山を見つめる5匹の犬の形が、悲しくも並んでいるのですね。
今は、道路整備などで多くの石が失われています。

その17 信夫山の狐塚の話

信夫山トンネルの入り口右側に税務署がありますが、その周辺を狐塚といって、昔、信夫の三狐が集まっては、人を化かす相談をしていたところだったといいます。
例えば「一盃森の長次郎」です。この狐はとても頭が良くて、どんなにだまされまいと頑張っても人間は出しぬかれて、コロリと化かされてしまうのでした。
ある日、様子をうかがっていた馬子の目の前で長次郎が葉っぱを頭に乗せてくるりと三回転すると、見事に美しい嫁子に化けました。そして山を降りて庄屋の屋敷に入って行ったのです。

庄屋はかわいい娘が帰ってきたと大喜び、さっそくごちそうを並べだしたのですが、そこに馬子が飛び出し、今日こそ狐の正体をあばこうと大騒ぎに。庄屋を説き伏せて嫁子を納屋に押し込め、松葉でいぶします。
しばらくして納屋から出してみると、嫁子はぐったりとして死んでしまった様子でした。驚いた庄屋は怒り狂い、娘のかわりにお前の命をもらうと怒鳴り散らします。真っ青になった馬子は平謝り。通りがかった僧がとりなし、おわびに頭をそって丸坊主になり、命からがら退散したのでした。それを物かげから見て大笑いしていたのが僧に化けた長次郎狐でしたとさ。
次は、意地悪な「石が森の鴨左衛門」の話です。どうぞお楽しみに。

その18 悲劇の鴨左衛門狐の話

信夫の三狐の一匹である、石が森の鴨左衛門の話は少々悲劇的です。
信夫山の北、鎌田の庄屋の家に男の子が生まれました。とても利口な子どもで、大きくなるにつれ、ますます神童ぶりを発揮し、その名は仙台まで届いたそうです。
すると、岩沼の竹駒神社から、ぜひ宮司にと使者がやってきました。喜んだ家族は祝宴を開き、鴨左衛門を送り出そうとしましたが、今度は京都の神社から「式典があるから出向くように」という便りが来たのです。

そこで、これはますますすごいことになってきた。と本人も喜び勇んで出発したのでした。
さて、鴨左衛門がようやく京都の神社にたどり着くと、そのときにはもう、先に来た人たちが黒山になっていました。そこで頭のいい鴨左衛門が、要領良く後ろからヌーッと手を出した途端、いきなり手を掴まれ正一位のハンコを手のひらにピタンと押されてしまったのです。
驚いて帰ってきた鴨左衛門は祝宴でも油揚げしか食べず、やがて疲れたと寝込んだ姿を月明かりで見ると、神罰に当たり耳まで口の裂けた狐そのものになっていました。「化け物だ!」とみんなに追い出された鴨左衛門は泣く泣く石が森に住みつき、それ以来、根性がねじ曲がり、小ずるい、意地悪な狐になってしまったのだそうです。

その19 名関脇「信夫山」の話

お正月にふさわしい、おめでたい? 話をしましょう。大相撲のファンの方はたくさんいらっしゃると思いますが、実は福島に双差し名人の「信夫山」というすごい力士がいたのです。
今は大横綱は「白鳳」ですが、昔は69連勝の大横綱「双葉山」がいて、いまだにその記録は破られていません。その時代(昭和15年)に旧伊達郡保原町から大相撲に入門したのが信夫山治貞でした。

実家は本間家といい、保原では名の知れた繭(まゆ)の仲買業者でした。入門後は、途中戦争に駆り出されたりと不運が続きましたが、なんとか相撲界に復帰し、猛稽古からどんどんと出世。昔の栃錦・若の花が活躍した栃若時代に、なんと新横綱「若の花」を初日に破ったことのある名力士だったのです。
見事、関脇まで上り詰めたその双差しの技は、玄人泣かせといわれるほどで、「りゃんこの信夫山」として、いまだに語り継がれています。
面白いのは、初めの四股名はあの「吾妻山」でした。一時期、本名の本間を名乗った時代もあったようですが、昭和24年に信夫山に改めてからは快進撃が続き、176㌢82㌔という小兵力士ながら、殊勲賞・敢闘賞・技能賞を8回も受賞。横綱を破った金星7個獲得という正に記録より記憶に残る名力士でした。今は、東京江戸川区にある泉福寺に眠っています。

その20 岩谷観音の話

信夫山の東端に「岩谷観音」という所があるのはご存じですね? 福島市指定の史跡にもなっていて、それは見事な磨崖仏(まがいぶつ)が60体も岸壁に彫られています。
磨崖仏とは、自然の岩面を半肉仏として彫刻したものです。
昔の人は今よりずっと信心深く、ご先祖さまが仏さまの世界で安楽に暮らせるよう、そして、自分も救われるようにと、一心に祈ったのですね。このような磨崖仏は世界中で見られます。

さて、岩谷観音は、もともと五十辺地区の豪族であった伊賀良目(いがらめ)氏が、洞窟に聖観音を安置したことに始まりました。福島藩主板倉家の歴代略記によれば、彫られ始めたのは1700年ごろとありますが、びっくりすることにはそれ以後も、明治の初めまで供養仏が彫り続けられたのだそうです。
また、岩谷観音には庚申塔(こうしんとう)も多く立っています。庚申信仰とは中国から来た信仰で、庚申(昔の暦で、かのえさるの日)の夜、人の中に住んでいる三尺(さんし)の虫が、寝ている時に身体から抜け出して、その人の罪料を天帝に告げ口し、天帝はその報告によって人を罰するというのです。だから、昔の人は行いを良くして、庚申の夜は眠らずに過ごしたのだそうです。岩谷観音は隠れた桜の名所、ぜひ一度、訪ねてみましょう。

その21 わらじいの秘密

信夫山の「暁まいり」が間もなく始まりますね。そこで、今日は「わらじい」の秘密をご紹介。
わらじいの年齢は300歳以上といわれています。大わらじから生まれたので、身体はワラでできているとか。本名は羽黒護左衛門藁助(はぐろごんざえもんわらすけ)という立派な名前です。なにしろ、足腰の弱い人や恋人同士を見ると放っておけなくなる性格で「わらじから生まれたから、健脚と身体壮健にはご利益抜群じゃ」と本人も保証済み。さらに縁結びも得意で、「二人で『暁まいり』に参加すればたちまち良縁が結ばれるはずじゃ!」と公言しています。パセオ通りの「信夫山散歩」にはお守りもありますよ。

さて、歴史をちょっと振り返ってみましょう。信夫山に大わらじが奉納されるようになったのは、約300年前といわれ、初めは仁王様の強い力に頼って病や邪を払ってもらおうと大きなわらじを奉納したのが始まりです。当時は、東北を代表する祭りの一つで、最盛期は7万人を超す参拝者があふれ、雪の凍路を登っていきました。戦後でも特別列車やバスが運行され、街は商店や映画館が24時間通しでにぎわったそうです。そこで、男女が出会い、縁結びの祭りといわれるようになったのですね。現在は、御山敬神会が受け継ぎ、長さ12㍍・重さ2㌧という、まさに日本一の大わらじを奉納しています。

その22 松川は信夫山の南を流れていた!?

今日は、松川の流れと信夫山についてお話ししましょう。
現在、信夫山の北を流れる松川。実は以前は信夫山の南を流れていました。慶長5年(1600年)、伊達政宗が信夫山の護国神社前に本陣を構え上杉方と激しい戦いを繰り広げ、福島勢が伊達政宗を打ち負かしたという「松川合戦」の話はご存知の方も多いのでは。その当時、松川は信夫山の南を流れていて、現在の一盃森・福島テレビの南側から競馬場の北端を通って阿武隈川に注いでいました。では、いつから信夫山の北を流れるようになったのでしょう?

現在の流れになったのは、寛永14年(1637年)の大洪水によるものです。堤防が無く、両岸に松が植えてあるだけだった松川は大きな被害を受けました。それによって、現在の南沢又の福島刑務所の上辺りで信夫山の北側に流れが変わってしまったのです。実際の松川を見ても、本当に信夫山の南を流れていたのか…なかなか実感が湧きません。
この季節、松川の川寒橋付近にはたくさんの白鳥が訪れていて、優雅な姿で私達を出迎えてくれています。川の流れと白鳥に癒されながら信夫山を見上げてみると、今までとは少し違った視点で楽しめるかもしれませんね。

その23 信夫山の雪室(ゆきむろ)の話

今回は、信夫山の雪室で氷を作っていたというお話です。
雪室とは、大きな雪の貯蔵所のこと。福島藩主・板倉公の時代から明治にかけて、信夫山の護国神社の上の山の斜面にありました。
冬の大寒大雪の頃、人足が集められて、雪室に大量の雪をかき集めました。その上にわら屋根をかけて、夏までその雪を保管したのです。すると雪の重みと冷たさで、中が氷になったのでした。

板倉公は城内で7月に夏越しの祭りを行っていたそうですが、その時に城下の役人や、町年寄り、御用達の商人が招かれて、この雪氷をかけた素麺が振舞われるのが習わしでした。
板倉藩の始まりは元禄の終わりごろ(1702年)で、夏越しの祭りは安政(1855年)との記録があります。明治の始まりが1867年ですから最近の話ですね。
現在も護国神社の上の車道を登ったところに、巨大な四角いくぼみがあります。後ろは崖で、今はうっそうと草木が茂っていますが、何百㌧もの雪が貯(た)められそうな場所です。ここに確かに雪室が存在したのでしょう。
エコロジーが重視されている昨今、電気を使わない天然冷蔵庫としての雪室は現代でも見直され、利用されている地域もあるそうです。まさに、先人の知恵ですね。