福島市の中心部にある信夫山の情報サイト

その4 信夫山の「ねこ稲荷」のいわれ

今回は、信夫山のご坊狐(きつね)と、「ねこ稲荷」の伝説です。昔、“信夫山の三狐”といわれた「信夫山のご坊狐」、「一盃森の長次郎」、「石が森の鴨左衛門」。3匹は信夫山の狐塚(現在の福島税務署辺り)に集まり、いろいろと悪巧みをしていたそう。中でもご坊狐は人を化かすのが上手で、御山の和尚さんに化けては町の魚屋に現れ、木の葉の小判で魚を買って持ち帰ってしまうなど、悪さをしていました。
ところがある日、鴨左衛門に「自慢の尻尾で釣りをすれば、魚などいくらでも釣れる」とだまされ、黒沼(現在のハローワーク福島前辺り)に尻尾を垂らして魚を待っていると、真冬の寒い夜だったので、たちまち尻尾は凍りつき、抜けなくなってしまったのです。力任せに引っ張ると、なんと尻尾は根元から切れてしまいました。
自慢の尻尾を失ったご坊狐は、神通力が無くなり化けることができず…。落胆するご坊狐を諭したのは、多くの迷惑をかけられた和尚さん。そこでご坊狐は、御山の人たちに恩返しをするため、蚕を守る守り神になりました。当時、養蚕が盛んだった信夫山では、蚕を食い荒らすネズミが大敵。見事にネズミを退治したご坊狐は「ねこ稲荷」として信仰を集め、いつからか“猫を幸せにする稲荷”として愛されるようになったのでした。

その5 信夫山の旧参道「御神坂(おみさか)

前回は信夫山「ねこ稲荷」の伝説でしたが、今回は数々の史跡が集中している信夫山の旧参道「御神坂」のお話です。
信夫山墓地を登っていくと、第一展望台に行く道と羽黒神社に登る道に分かれています。しかし、実は真ん中にもう一本、車では登れない狭い山路があります。その路こそ、昔から大わらじを担ぎあげていた羽黒神社の正参道。実際に登ってみると、急坂なことに驚きます。
昔の「暁まいり」では、雪や氷で滑るこの坂を、男性が女性の手を握って助けながら登ったので、“縁結びのお祭り”といわれました。
初めの急坂を登ると、急にぱっと明るい平地に出ます。そこには羽黒神社の赤鳥居が厳然と立ち、左右には八幡神社や念仏橋の石碑などの史跡があります。T字路になっていて、左に行くと薬王寺から鴉(からす)が崎に至る山伏の修験道です。正面の赤鳥居をくぐり、さらに登っていくと、左手に羽黒観音堂が現れます。これが信達三十三観音の三番礼所です。その上が、ねこ稲荷で、さらに牛頭神社、飛脚問屋が寄進した石燈籠、三宝荒神、天王宮、一の宮神社などの史跡が連なり、江戸時代の雰囲気が色濃く漂う史跡の道でもあります。
そして、最後は岩坂を登って、ついに大わらじのある羽黒神社に到達します。帰りは、楽なユズ畑の道を下りましょう。

その6 愛猫の写真を「ねこ稲荷」へ奉納

今月2月22日の“ニャンニャンニャン”の「猫の日」。リビング福島「わが家の『宝猫』」特集でたくさんの猫たちが登場し、いかに猫が人を癒し愛されているか、エピソードと共に紹介されました。
いつも身近にいて、すべすべ・ふわふわして、甘えん坊で、自由気ままな猫は、飼い主にとってはペット以上の心を分けた大切な存在。そんな猫を愛する人たちが多い福島には、猫に縁のある地名や、猫を祀(まつ)った小神社が各地にあります。

その理由の一つが、昔、養蚕で栄えた地域だったところから、蚕を食い荒らすネズミを退治する猫が大切にされた、という言い伝えです。今では養蚕は廃れてしまいましたが、川俣町「猫稲荷」や、信夫山「ねこ稲荷(西坂稲荷)」など、猫を愛する人が大切にしている神社がいくつか残っています。
そこで信夫山のねこ稲荷では9月27日(日)、「猫の幸せ祈願祭」を開催。参加希望の方は、「わが家のじまん猫」「思い出の猫」の写真を持って、午後2時に信夫山護国神社に集まってください。祈願祭を行った後、信夫山中腹のねこ稲荷に、皆さんの猫の写真を貼りましょう。何年か後に再び参拝に行くと、あなたの猫の写真がきっと残っていて、思わずウルッと涙があふれてきますよ。参加料は祈祷(とう)料込500円、記念品もあります。

その7 信夫山に皇后様と皇太子様が逃げてきた?

まさか! と思うかもしれませんが本当の話です。昔々、仏教伝来で名高い第29代欽明(きんめい)天皇の時代、30代の敏達(びたつ)天皇の地位をめぐり、兄弟の王子が争うことになりました。勝ったのは、なんと弟の王子。こうして敏達天皇が誕生したのです。
争いに敗れた兄の淳中太尊(ヌナカフトノミコト)は、都を追われ信夫山に落ち伸びてきました。そして、兄を応援していた御母宮(欽明天皇の妻)の石姫皇后も信夫山に追われてきたのです。

その後、淳中太尊が亡くなると、信夫山の山頂に羽黒大権現として祀(まつ)られ、次いで皇后様がお亡くなりになると、黒沼神社に大明神として祀られました。この話は、信夫山護国神社の隣・黒沼神社に、神社縁起として大きく掲げられています。
この黒沼神社はたいそう古い神社で、護国神社(1879年.)よりもはるか昔から信夫山に鎮座していました。欽明天皇の時代は700年代ですから、この伝説は本当の話かもしれませんね。
なお、皇太子様についてきた6人の家来は、羽黒大権現の六供(ろっく)といわれる高僧になり、現在もその子孫が信夫山に住んでいます。皇后様についてきた7人の家来も七宮人と呼ばれ、同じく子孫が信夫山に住んでおられます。びっくり!
信夫山はこんな伝説がいっぱいの山なのでした。

その8 信夫山は実は山ではない

前回に続き、これも驚きですが本当の話です。実は信夫山は、福島盆地が陥没した時、ぽつんと取り残された「残丘」あるいは「孤立丘」と呼ばれる地形だったのです。
信夫山の誕生は、1000万年前にさかのぼります。当時の東北地方は海底時代で、信夫山の地層はその時代に海底に堆積したものだそうです。その証拠に、信夫山東部では今でも木の葉や魚の化石が見られますね。500万年前あたりから、次第に東北地方の隆起が始まり、やがて吾妻連峰やあだたら連峰などができてきました。

また、その頃に信夫山の地下にはマグマが昇ってきて、周辺の地層は岩石のように固くなりました。
そこで起こった大事件。50万年前ごろ、なんと福島市の西部から国見まで連なる大断層が出現し、「福島盆地」といわれる地域が大陥没を始めたのです。そのとき固くなっていた信夫山のところが取り残されて、盆地の中にぽつんと取り残されたという訳ですね。納得!
面白い話があります。福島市三河南町に「コラッセふくしま」を建てる際、ボーリング調査を行いました。地下120㍍でようやく岩盤に突き当たったのだそうです。ということは、275㍍の信夫山は、腰まで土砂に埋まった山で、本当は395㍍もあったことになります。びっくり!
信夫山は謎が深いですね。

その9 となりのトトロと信夫山

今回は、あの宮崎駿監督の名作アニメ、「となりのトトロ」のオープニングテーマ「さんぽ」が信夫山から生まれた、というニュースです。
歌詞を作ったのは、「ぐりとぐら」や「いやいやえん」などさまざまな文学賞で有名な童話作家の中川李枝子さん。ご存じの方も多いでしょう。その中川さんは戦後、小学生のときに疎開で福島市へ移り、福島第二中学校を卒業。福島県立福島女子高校(現・橘高等学校)に通い、高校2年まで福島市で暮らしました。そして、その当時よく散歩したのが信夫山だったそう。

「さんぽ」は、そんな信夫山のイメージを膨らませて書かれたものだそうです。トトロの中では、続いてイメージソング「すすわたり」「ねこバス」「ふしぎとりうた」など、たくさんの挿入歌を書いています。信夫山の緑のトンネルや、気持ちのいい青空の記憶が、トトロの元気いっぱいの歌になったのでしょうね。テーマソングを歌った井上あずみさんも、信夫山を訪れています。
実は信夫山は、文学の山でもあったのです。昔は、信夫山の薬王寺に東北を代表する俳壇(サロン)があり、多くの文人が集まりました。そういえば、護国神社の向かいの太子堂公園には、数多くの有名歌人の歌碑が立っていますね。
信夫山は、知れば知るほど奥深い山なのでした。

その10 古関裕而と信夫山

福島市の誇る作曲家、古関裕而のことはみんなが知っていますね。福島駅を降りると、駅前広場でまず目に止まるのがピアノに向った古関裕而のブロンズ像です。
その古関裕而が、信夫山に眠っています。護国神社から信夫山墓地を登っていくと、初めの小路があります。そこを右に入った、大きなサルスベリの木のところに、古関家の墓所があります。古関裕而のご先祖様、古関三郎冶は、信夫山に大きく貢献してきました。

ほら、ハローワーク向かいの噴水公園に祓川橋という石橋が保存されていますね。それは享和3年(1803年)に古関三郎冶が寄進したものです。
もとは県庁通りから信夫山に突き当たった、祓川にかかっていました。橋脚が半円形で、祓川に美しく映り「御山のめがね橋」といわれ人々に愛された橋です。また、峯の薬師堂の裏に大日如来像がありますが、これも三郎冶の寄進です。当時の文化人だったのですね。
古関家は昔「きたさん」という屋号の呉服問屋さんで、駅前レンガ通り沿い「チェンバおおまち」手前に記念碑が建っています。当時の商家は地域に貢献をするのは当たり前、という心意気があったのです。
古関家は代々三郎冶を名乗り、橋を寄進したのは五代目三郎冶、そして古関裕而は、七代目に当たるそうです。

その11 信夫山は恋の山

ご存知でしたか? 信夫山ほど、恋の歌が多く詠まれた山はありません。平安の昔から、みちのくの信夫山は歌枕として数多く登場しています。
「きみ恋ふる 涙しぐれと降りぬれば 信夫の山も色ずきにけり」とか「恋詫びぬ 心のおくの忍ぶ山 露もしぐれも 色にみせじと」など、平安の貴族は“しのぶ恋”“忍び泣く”“しのんで通う”“耐え忍ぶ”などの恋の思いと、みちのくの響きを重ね合わせて、憧れの信夫山のイメージを心に描いていたのでしょう。

歌枕とは、和歌を詠むときに定番として出てくる名所のことですが、信夫山を読んだ和歌は実に90首もあり、全国的に著名な歌枕でした。面白いのは、信夫山の羽黒神社の下に、有名な「名月の碑」がありますが、そこには「名月や ものに触らぬ 牛の角」と彫られています。「名月の月の明るさに、牛も角を触らず歩くことができる」と書いてあると思うと、さしたる名歌とは思えませんね。しかし、それは勉強不足で何と「牛の角」とは、平安時代の恋の隠語でした。すると、この歌の意味は、「月の明かりをたよりに、誰にも会わずに、あなたのもとへ忍んで行きます」という意味になるのですね。深い!
歌を読んだのは、信夫山御山部落の名主、西坂珠屑(しゅせつ)という俳人です。信夫山は文化の山でもあったのです。

その12 信夫山「北限のゆず」

11月に入って「信夫山のゆず」がすっかり黄色く色付いてきました。
かつては「北限のゆず」といわれ、「見た目は無骨だが皮が厚くて香りが強く味がいい」と評判でした。確かに「くだりもの」といわれる、温かい地域で育ったユズは、見た目はきれいで柔らかなのですが、信夫山のユズと比べると味も香りもだいぶ下がります。
信夫山のユズは、「御山のゆず」とも言われ、大わらじ奉納の「暁まいり」のときに、参拝者はユズ湯、ユズ飴、ユズ味噌などを必ず買って帰ったものでした。

信夫山にユズが栽培されたのには伝説があって、信夫山頂上の羽黒権現様が都からお渡りになったとき、お守りに持ってきたものがユズだったといわれています。御山部落では家の周りにユズを植えて「いぐね」の守りとすることになったのがユズ栽培の始まりだそう。ユズは香気が高く、都では食料にも薬用にも使われ、軒に下げただけでも魔除け・厄除けになるほど効能が高かったといわれています。
信夫山では、江戸初期から栽培されていたようで、昭和元年の資料には栽培430本、産量約10トン、販路は遠く新潟・山形・北海道まで売られていたそうです。現在では、温暖化の影響で岩手県までユズは出来るようですが昔は北限だったのですね。

その13 信夫山で一番高いところはどこ?

信夫山は、信夫三山といわれる三つの峰からなっていて、東から順に「熊野山」「羽黒山」「羽山」と呼ばれています。信夫山の一番高いところはどこか知っていますか? というと、福島の古い人は、自信を持って熊野山268㍍と答える人が多いのですが、実は、信夫山の高さは3度も変わっているのです。
国土地理院の昭和52年の地図によると、大わらじが奉納されている羽黒山は意外や260㍍と一番低く、鴉が崎のある羽山は267.6㍍で二番目、熊野山が268.2㍍で一番高いと表示されました。昔の人はそれを覚えていたのですね。

ところが、その後の測量で羽山が272㍍あることが分かりトップの順位が入れ替わりました。さらに、平成13年になって、羽山の湯殿山神社の後ろにある大日岩が、さらに3㍍高いことが判明し、信夫山の最高点は275㍍と正式に認定されたのです。当時の民友新聞や毎日・朝日新聞などを見ると「3㍍高くなった信夫山」として記事が出ています。それを指摘したのは福島市町庭坂の土井勝さんという山岳山頂研究会の方でした。
深秋の今、鴉が崎に立つと福島市の大西部がパノラマのように広がり、実に爽快な気分です。ぜひ、登ってみましょう。