その74 ひとつひとつ違うご利益が
「御神坂(おみさか)」は、信夫山墓地の頂上、三差路の真ん中のところです。昔の羽黒神社への参道ですが、そこには江戸時代から続く史跡が残っています。
興味深いのは、六供(ろっく)の小宮といわれるお宮が並んでいること。時代を感じさせるお宮ですが、それぞれに異なったご利益があります。
登って最初に出会うのが右「正八幡宮」。南無八幡大菩薩で知られる戦いの神ですから、昔は出征兵士の武運長久で、現在は試験・就職の祈願にご利益があります。
次に羽黒神社の赤鳥居があり、その左が「天神社」です。天神さまは学問の神であり、雷神・農耕神でもありますね。
さらに登ると、「羽黒観音」があり、その上が「ねこ稲荷」です。その少し上左に「牛頭天王宮」がありますが、なんと京都の八坂神社(祇園社)とつながりがあるといい、病気を祓(はら)うご利益があります。
さらに上右の、江戸時代の飛脚問屋島屋の石燈籠の上に「三宝荒神」があります。荒神とは火の神で激しい験力を持ち、火伏・厄除けにご利益が抜群です。その上が「山王宮」で山の神・田の神つまり農耕の神様ですね。最後が御神坂頂上左の「一宮明神」で、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全を願います。
昔の人は信心深かったので、一つ一つ心を込めてお参りをしました。
その75 今年も「ねこの幸せ祈願祭」開催!
信夫山に登場してから、ねこファンに急に知られるようになったのが「ねこ稲荷」です。
何が注目されたかというと、信夫山で「ねこの幸せ祈願ができる」というところ。しかも、愛猫の写真をケースに入れて、立派な奉納ボードに掲示してくれるのです。
今年の「ねこの幸せ祈願祭」は4月16日(日)に決まりました。会場は信夫山護国神社で、午後1時から受付開始、テント張りの会場で持参したマイ猫写真にメッセージを書き込んだり、お礼をもらったりして、2時に護国神社でご祈祷(きとう)が始まります。
ご祈祷が終わったら、いよいよねこ稲荷へ。急坂を登ると赤鳥居が並び、昔の雰囲気がただよう御手洗池(みたらしいけ)の奥に、大きな写真奉納ボートが見えます。そしてねこ稲荷の小宮が・・・。皆さん心を込めてマイ猫の幸せを祈ります。
現在、写真は200枚を突破。フリーで訪れる人も多く、増殖中です!
実は、この猫稲荷は「西坂稲荷」という正式な名前があって、伝説の「ご坊狐」の稲荷さま。人化かしの名人だったのですが、自慢のしっぽを失って改心し、蚕を食い荒らすネズミを退治する守り神になったのです。
地域の人に愛されたねこ稲荷は、今では猫ファンの聖地になっています。全国にPRしたいですね。
その76 女性だけの会(二十三夜講)
信夫山には「二十三夜塔」という不思議な石碑があちこちにあります。
「二十三夜に、女性だけが集まって開く秘密の(?)集会だった」という謎めいていますが、これは室町時代の後期に京都の公家社会で始まった「月待ちの行事」で、やがて民間にも広がり近年まで続いていたものです。
何かというと、月の出が一番遅い、旧暦二十三日の夜は、深夜0時ごろになってようやく月が昇り始めます。しかも、その月は下弦の月で、特別の霊力があると信じられていました。
その月の光を浴びると若返りや、不老長寿の効力があるといわれていて、女性たちは心を清めて月の出を待ったそうです。春は牡丹餅(ぼたもち)、秋は御萩(おはぎ)を23個お供えしました。
ところが、時代が下るともうひとつの楽しみも加わってきました。みんなで持ち寄った料理を食べながら、女性たちは真っ暗なその夜だけは、思いっきり舅(しゅうと)の悪口を言っても良かったのです。それがだんだんと安産や子育て、家内を相談する「観音講」に変っていったのですね。
信夫山で有名なものは、羽黒神社の登り口右にある「弘安の逆さ板碑」で、文政(江戸時代)の碑なのに弘安(鎌倉時代)の文字が逆さまに書いてある、つまり再利用しています。二十三夜塔は羽黒神社境内や、岩谷観音にもありますよ。
その77 天台宗の古刹「薬王寺」
信夫山の第一展望台のある峰を、寺山とか青葉山と呼んでいますが、その頂上にあるのが青葉山「薬王寺」です。
その歴史は古く、天安元年(857年)慈覚大師により開山されたと伝えられています。
江戸時代の初期、福島藩主・堀田正仲は福島城の鬼門の要とし、後には板倉藩の祈願寺として、幕末まで度々記録に登場しています。
ご本尊は、阿弥陀如来坐像ですが、別の間の護摩堂には秘仏日の出不動尊が祀(まつ)られています。天台密教の護摩祈祷(きとう)の本尊ですが、剣と網を持って怖い顔をしています。
昔、本道に忍び込んだ泥棒が、不動尊の金縛りにあって、朝まで動けなくなり捉えられた話が有名ですね。
また、御神坂(おみさか)にある羽黒観音堂から預かって保管している如意輪観音は、福島市の有形文化財として指定されている優美な仏さまです。
もうひとつ有名だったのが元禄の大鐘で、薬王寺の晩鐘として、福島八景の一つに数えられていました。現在は新しい鐘楼が作られています。
薬王寺は、江戸後期から福島俳壇のサロンにもなり、多くの俳人・文人が集まりました。明治41年には東北六県のイベント「奥州俳人大会」が開催されるなど、いわば福島の文化の中心でもあったのです。やはり、信夫山は大した山なのですね。
その78 謎石の多い信夫山北側
信夫山の北側というと、あまり知られていないのではないでしょうか。
信夫山トンネル北の国道13号も、昭和初期の写真を見ると田んぼの真ん中を通る田舎道で、馬車がようやく擦れ違えるぐらいの道幅しかなかったのが分かります。
ですから、信夫山北側には昔のお話がいっぱい残っていますね。
例えば、福島駅方面からトンネルを抜けて左の、和食店「升冨 しのぶ野」の辺りは「転石」という住所です。昔、子守の娘が信夫山の悪口を言ったら、頂上から大石が転げ落ちてきて、憐(あわ)れ娘は押しつぶされてしまったそうです。
つい、60年ぐらい前まで田んぼの真ん中に大石がありましたが、現在は辻(つじ)のところに転石の石碑が立っています。
一方、トンネルを出て右手の信夫山中腹には、ぼたもち岩(神楽岩)という大岩があって国道からいつも見えていました。最近は雑木に隠れて見えなくなりましたが・・・。
また、「酒のあかい」から山裾の道を東に進むと、旧道沿いに馬石・蛙石・三日月岩・二十三夜石・烏帽子岩などの拝み石があって、一つ一つにいわれや言い伝えが残っているそうです。
松川の護岸工事で壊された「猫石」は、その後工事に関わった作業員が亡くなり祟(たた)り石といわれたそう。現存の石はいつまでも伝説と一緒に残って欲しいですね。
その79 信夫山公園の桜あれこれ
信夫山公園は、明治7年に明治政府から市民の公園として認可され、駒山公園から整備が始められました。なんと、東京の上野公園と同じ時期だそうです。
現在の信夫山入口「芝生公園」は、当時、「黒沼」という大きな沼で、その昔、沼の主・オロチが住んでいたところといわれていました。駒山公園の工事で、ずいぶん小さくなったそうです。
近年まで沼が残っていましたが、昭和60年代に苑池化され桜の噴水公園となりました。
明治32年には、福島町長・鐸木(すずき)三郎兵衛による「信夫山を桜の名所にしよう」との呼びかけで、町の有志により1万本のソメイヨシノが植えられました。100年後の世代が楽しめるようにと、祖先からの贈り物だったのですね。現在では信夫山全山で約2000本、公園内で200本余りの桜があるといわれています。
さて、護国神社の道路向かいが信夫山公園で、昔は愛宕山(あたごやま)と呼ばれ、伊達政宗が本陣を構えて福島城と松川合戦を行ったところです。今では、桜の季節に花見茶屋が立ち、賑(にぎ)わいます。信夫山公園(太子堂広場)の東の、一段下がったところが堂殿「大日堂広場」で、桜の名所です。たくさんの歌碑・記念碑があり、信夫山の奥深さを感じることができますよ。
その80 信夫山は恋の山(その2)
信夫山ほど恋の歌に詠まれた山はないでしょう。平安時代から、都人の「奥州みちのく」への憧れは大変なもので、たくさんの歌が残されています。
中でも「信夫山」は人気の的で「しのぶ」という響きが、忍ぶ(人目を忍ぶ)、偲ぶ(思い慕う)、慕う(懐かしくおもう)、さらに、恋の哀しさや世の憂きことを忍ぶ(耐え忍ぶ)を連想して、恋心に思いを重ねたのでしょうね。
信夫山を詠んだ歌だけでも90首あります。
「しのぶ山 しのびてかよふ道もがな 人の心の奥を見るべく」(伊勢物語15段)=「あなたの元へ人目を忍んで行ける道があったらなあ、あなたが心の奥で私をどう思っているのか、知りたいのだ」という意味になるのでしょう。この場合の「しのぶ山」は“しのぶ恋”の形容詞のように詠まれていますね。
「いかにせむ 信夫の山を超えかねて 帰る道にはまた惑ひける」(慈円)=「あなたを偲ぶ恋心を打ち明けきれず、どうしたものか、ひとり帰り道にも、まだ迷っているのです」と、少々情けない男心ですが、本当に好きな女性にはなかなか打ち明ける勇気が出なくて、男は惑うのです。
でも、そんな歌をもらったら、思わず許してしまうかも知れませんね。続く…。
その81 信夫山は恋の山(その3)
信夫山は、歌枕(和歌を詠むときに定番として出てくる名所)として数多くの歌に登場しています。信夫山を詠んだ和歌は90首もあり、全国的に有名な歌枕でした。
そして信夫山は、しのぶ(信夫)という言葉そのものが、恋を表しています。都の人は、みちのくの信夫山というより言葉の上で、信夫山を「恋」の代名詞のように詠んだのではないでしょうか。
「尋ねばや しのぶの山のほととぎす こころの奥の ことや語ると」(千載集)=「ひそかに訪ねていこう、しのぶ恋のあの人のところに、心の想いを、聞けるかも知れない」昔の人は、恋する人をほととぎすに譬(たと)えることが多かったようですね。
「人しれぬ 思いしのぶの山風に 時ぞともなき 露ぞこぼるる」(新拾遺集)=「人しれずお慕いしている、あなたへの思いは、緑の風のように溢れ出して、あなたを想うとき、涙がこぼれるのです」でしょうか。
珍しく、恋を直接に詠(うた)ったものでない歌もあります。
「みやこには 花もちりあえず 陸奥のしのぶの山は 春風の頃」(新後拾遺集)=「都の桜はとうに散ってしまっているが、みちのくあたりは、ようやく春風の吹く頃だろうな」といった意味ですが、背景にはやはり、憧れる女性に思いを寄せる恋心が感じられますね。
その82 信夫山の樹木の危機1
信夫山は福島市民のシンボルであり、自然環境豊かな緑の山と思われていますが、実は50年も前から信夫山の樹木は壊滅的な状況になりつつあるといわれています。
昔は、信夫山の木々は自生の赤松を中心として、コナラ、クヌギ、ヤマハンノキなど多様な樹木が混在し、花木も多く、草花野草も実に多様な種類が生えていました。
植生が豊かだと、固有の植物を餌とする昆虫の種類がどんどん増えます。昆虫が豊かだと、それを餌にする野鳥の種類が増えてきます。
昔の子どもたちは、信夫山でカブトムシもクワガタも採り放題でした。野鳥も豊富で100種類を超えていました。
そんな信夫山が今では雑木と“かずら”に覆われ、自生の樹木は根元に陽が当たらず、すっかり樹勢が弱まって、松くい虫やカイガラムシに蝕(むしば)まれています。山に入ると害虫に倒された赤松などが累々と横たわってブルーシートに覆われています。
原因は、適切な除間伐、下刈りが行われていないためです。石油時代になって、炊事も風呂もガス化され、薪(まき)の需要が無くなってしまったため、木を切り出さなくなったからだといいます。
雑木で薄暗くなった森や林が多くなっている信夫山、なんとか雑木やかずらから信夫山本来の木を救いたいものですね。
その83 信夫山の樹木の危機2
信夫山は、一見自然環境豊かな緑の山に見えますが、実は、樹木が危機的な状況にあると前回書きました。
実際にちょっと注意をしてみると、探索路の森林は自生木の赤松も、ナラも、クヌギも、雑木やかずらに覆われています。昼間も薄暗く、根元に陽(ひ)が当たらず、昔はたくさんあった野草・草花もすっかり見かけなくなりました。
山道の少ない箇所、信夫山の北側などは、一層鬱蒼(うっそう)としていて、森の荒廃が進んでいることが分かります。
さて現在、信夫山では、放射能汚染の除染作業が進められています。福島市のシンボルであり、全山が自然公園と位置付けられている信夫山ですから当然だと思いますが、その除染作業で思わぬ効果が出ているのです。
すでに、多くの人が見ていると思いますが、表土の放射能汚染を低減するために、大規模な除染作業や残渣(ざんさ)除去、立枯れ樹木・雑木・かずらなどの刈払いを行っています。その結果、本来の地肌が現れ、見事に自生木の根元が見えてきました!!
除染箇所は、今は丸裸に見えますが、あと2年もすると、多くの草木・野草がよみがえってくるでしょう。そして、多くの昆虫・野鳥が帰ってきて、信夫山は、また、豊かな自然を取り戻していくでしょう。